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ISM研究会の皆さん,今井です。2001年度春季信用理論研究学会の感想文の
続きです。
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主張その2 私は実務感覚から内生的貨幣供給論を選んだ
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誰がどうやって貨幣を供給するのかということについて,経済学には,外生
的貨幣供給論と内生的貨幣供給論という二つのイメージが伝統的にあります。
外生的・内生的というのは,要するに,市場の外か内か,という意味です。
外生的貨幣供給論というイメージに拘束されているのは,昔は通貨学派,今
はマネタリスト(典型的にはフリードマン)です。まぁ,通貨学派的マルクス
経済学者もいます。このイメージによると,貨幣は市場の外で国家(中央銀行
は一つの独立的な国家機関です)の動向(金融政策,特に中央銀行の発券)に
応じて供給されるということになります。
内生的貨幣供給論というイメージに拘束されているのは,昔は銀行学派,今
はポストケインジアン(典型的にはカルドア)です。まぁ,銀行学派的マルク
ス経済学者もいます。このイメージによると,貨幣は市場の内で市場の動向
(産業・商業資本の資金需要)に応じて供給されるということになります。
既に見たように,吉田さんの実務感覚では,貨幣供給は,日銀による一万円
札の発券とは無関係であって,借り手の需要に応じて個別の市中銀行の信用創
造によって預金通貨という形態で創造されるわけです。従って,当然に,吉田
さんは内生的貨幣供給論の立場に立ちます。
実践的には,当然に,この立場は量的拡大論(量的緩和論)批判になりま
す。つまり,“ニセ札を印刷しても無駄だ”という立場ですな。まぁ,その裏
面としては,事実上の日銀免責論になるはずです[*1]。もちろん,短期的には
オーバーナイトのコールレートの調整,また中・長期的には公定歩合操作は有
効なんでしょうが。
[*1]吉田さんは正義感のある人なので,そこまではいか
ないでしょう。因みに,“日銀学派”の翁さんは胸を張
って貨幣供給に関する日銀の無能力を力説し,日銀を免
責しようとしています。
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主張その3 日銀券は政府紙幣ではなく,信用貨幣である
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ポイントは,“日銀券と預金通貨とはどちらも信用貨幣という点では全く同
じだ”ということだと思います。残念ながら,論証部分は俺には全く理解不可
能でした。けれども,われわれにとって必要なのは,論証の妥当性よりも,社
会意識上の位置付けです。
要するに,“日銀券が政府紙幣であるのか信用貨幣であるのか”などという
不毛な二者択一的問題に対して吉田さんが敢えて解答を与えなければならない
のは何故か,ということが問題になります。そして,それは,預金通貨の外生
性を否定するだけでは飽きたらず,現金通貨についてもまた,その外生性(こ
こでは市場の“外に立つ”政府が法的に付与する強制通用力によって現金通貨
が流通するということ)を否定し,こうして,預金通貨の内生性(ここでは銀
行マンが指先一つで預金通貨を作り出すということ)と合わせて,通貨の内生
性を徹底させようということだと思います,多分。
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吉田さんの主張の肯定面
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現代資本主義社会を貨幣面からみると,ヒトがカネというモノに束縛され
て,カネというモノに躍らされる重金主義(マネタリー・システム)と,そ
の基礎の上に聳え立つ,ヒトとヒトとの自由で自覚的な関係──として現れ
る関係,実は無自覚的な関係──によってモノによる束縛から解放されよう
としている信用システム(クレジット・システム)とが,バラバラに分離し
ており,また分離しているという点で,直接的・絶対的・暴力的に統一され
ています(まぁ,実際には,分離の局面と暴力的統一の局面とが産業循環の
中で分かれて現れてくるのですが)。このような“バラバラの統一”という
関係は,信用システムの内部でも再現します。信用システムそれ自体が,素
朴で自然発生的な基礎(わかりやすく言うと掛売買)と,その上に聳え立つ
高度に人為的・計画的な銀行制度との直接的な統一です。
資本主義社会の十分な発展にとっては,素朴な物神崇拝は制限であって,こ
のような制限は自由な人格たちが計画的に形成する理性的な制度によって否定
されなければなりません。素朴な物神崇拝が発展した現代資本主義社会の合理
的諸制度の自然発生的基礎なのですから,──従ってまた資本主義そのものな
のですから──,自分自身を自己否定しなければならないわけです。こうし
て,金などというただのモノが力をもつなんて野蛮な事態も否定されなければ
ならず,一方では自由で合理的な当事者たちが結ぶ信用関係が,また他方では
印刷代以外になんの価値もないただの紙っ切れが,「金ピカ幻想」(クルーグ
マン)を笑い者にしようとします。──“俺は最早,お前のような野蛮人とは
違うのだぞ”
要するに,現代資本主義が高度に発展した銀行制度において志向しているの
は,自由な人格のアソシエーションがモノの社会に取って代わるということで
あり,一言で言うと,共産主義です。ところが実際には,銀行制度という,こ
の“共産主義”は,モノの社会──モノが力を持ち,誰でもモノに躍らされ振
り回される社会──という自分自身の基礎を止揚することはできません。何故
ならば,両者は全く分裂しているからであり,換言すると,全く同じものだか
らです。実際にまた,信用崩壊の際には,あろうことか預金を紙っ切れの形態
で口座から引き出してこの紙っ切れを後生大事に箪笥の奥にしまうなどという
形で,文明的・合理的・計画的な銀行制度を台無しにしてしまう愚かな野蛮人
が出てくるわけです。
以上,現実そのものにおけるマネタリー・システムとクレジットシステムと
の絶対的分裂と直接的統一とを見てきました。これを社会意識はどのように反
映するのでしょうか? 社会意識についても,クレジット・システムという分
裂の一方の極にしがみつく意識と,マネタリー・システムという分裂の他方の
極にしがみつく意識とが,やはり分裂しており,従ってまた直接的に統一され
ています。
クレジット・システムにしがみつく意識は,一言で言うと,“現代資本主義
は共産主義だ”と福音する,ポジティブシンキングで楽観的な意識です。そう
は言っても,クレジット・システムは,理念としては共産主義ですが,現実的
には共産主義ではなく,資本主義です[*1]から,結局のところこの連中は詐欺
師になります。こうして,この連中は,「山師かつ予言者」(マルクス)とい
う二重の性格を受け取るけれども,この二つの性格自体が全く分裂しており,
従ってまた直接的に統一されているわけです。
[*1]誤解を避けるために一言。ここでは,「理念とし
て」という限定と「現実的には」という限定とが対比さ
れています。けれども,「理念として」というのは,
“現実とは無関係に誰かの頭の中にある”という意味で
はなく,“現実そのものが生み出し,現実そのものの中
にある,現実そのものの理念的な形態”という意味で
す。現代資本主義は,“資本主義なんていやだぁ〜”な
どと大多数の人間が思っていなくても,それでもやはり
資本主義を(自分自身を)否定しています。
マネタリー・システムにしがみつく意識は多様に現れるから,俺にはまだち
ょっと整理がつきません。けれども,上のクレジット・システムにしがみつく
意識に対しては,“現代資本主義は共産主義とは全く無縁だ”と嘆くネガティ
ブシンキングで悲観的な意識が直接的に対立しています。その場合には,客体
的現実性そのものが共産主義と“全く無縁”であるとイメージされている以
上,理論的に徹底すると,この意識は客体的現実性の外部から,特別な主体を
もってきて,無謀にも現実そのものに反抗・反逆するしかないはずです。実際
にこういうやつがいるから恐ろしいことですが,しかし理念的には信用制度は
資本主義と矛盾しており,共産主義を志向しているから,ここで,ヨリ高い意
識というか,ヨリ鋭く狂った意識というか,そういうものが生まれていま
す[*1]。つまり,マネタリー・システムにしがみつく意識もまた,“現実に反
逆する来世救済”という二つの性格をもつようになり,やはりこの二つの性格
自体が全く分裂しており[*2],従ってまた直接的に統一されているということ
が明瞭になるわけです。
[*1]例えば,マルクス経済学では,桑野仁さんが「信用
制度による金の真の節約・進歩は,社会主義についての
みいいうることである」などと真顔で主張しています。
これに対して,伊藤武さんは“信用制度は資本の自己形
態なんじゃ,ワレェー,共産主義になったら信用制度は
なくなるんじゃ,ボケェー”という類の批判を行ってい
ます(『マルクス信用論の解明』,法律文化社,
1982年,第254頁)。それはそれで全く正しいのです
が,それだけでは不十分であって,その現実的な発生根
拠に即して批判する必要があると思います。
理論としてではなく,イデオロギーとして捉えると,
上記の狂った命題の中には,(1)資本主義が金ピカ幻想
から逃れられない(=資本主義では「金の真の節約」は
不可能だ)ということ,そして(2)「信用制度」──一
言で言うと資本主義──が理念として志向しているのは
「社会主義」であるということが,言明されています。
要するに,クレジット・システムにしがみつく意識が
“資本主義は共産主義(=信用制度)と見付けたり”と
いう狂った形で言明していたものを,マネタリー・シス
テムにしがみつく意識は“共産主義は資本主義(=信用
制度)と見付けたり”という同じく狂った──しかし正
反対の方向に狂った──形で言明しているわけです。
[*2]来世救済とは,現実に背を向けて念仏を唱えるとい
うことですから,現実に対して積極的に反逆するという
こととは,取り敢えず,全く別物です。少なくとも,全
く別物として現れます。
前置きが長くなりましたが,結論は簡単です。
第一。吉田さんの議論──てゆーか,内生的貨幣供給論──は,クレジッ
ト・システムという一面しか見ない議論です。それは,マネタリー・システム
とクレジット・システムとの分裂という,われわれの日常生活の分裂的現象を
意識において忠実に再現しています。
第二。それは,“マネタリー・システムからクレジット・システムへ”とい
う発生的関連を逆転させた議論です。これもこれで,われわれの日常生活の転
倒的現象を忠実に再現しています。
第三。クレジット・システムに固執して,クレジット・システムの側からマ
ネタリー・システムを止揚しようとするこの立場の行き着く先は,モノに束縛
されないヒトの自由で自覚的で計画的な関係です。これもこれで,われわれの
日常生活が向かっているものを忠実に再現しています。
以上の三点において,この転倒した主張は,偶然的に転倒した主張ではな
く,システムそのものの現実的な転倒を忠実に再現した主張,すなわち転倒し
たシステムそのものが必然的に措定する主張という肯定的な意義を獲得してい
ます。