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ISM研究会の皆さん,今井です。2001年度春季信用理論研究学会の感想文で
す。
今大会では,川波洋一さん,原正彦さん,吉田暁さんという三人の方が報告
されました。あっしはどうかと言うと,朝は用事があったので,吉田さんの報
告だけでも聞こうと昼過ぎにいったのですが,間に合わず,一般討論の時間か
ら出席しました。
一般討論では,吉田さんの質疑応答だけは聞きました。レジュメを読む限り
では,他のお二方の報告はあっしの理論関心とはちょいと違うものだったの
で,川波・原さんの質疑応答の時間は,外のソファーで久留間さんと一緒に口
から有毒ガスを噴出していました。
てなわけで,あっしが報告を紹介するってのは無理な話です。そこで,レジ
ュメを見ながら要約したいと思うのですが,理論関心が違うものを要約するっ
てのもやっぱり無理な話です。
以下の要約部分では,川波・原さんの部分は要約になっていませんが,これ
は理論関心が違うからであって,要約の正しさについては保証しかねま
す(笑)。川波・原さんの報告については,表題から内容を判断して,理論関
心がマッチする方は是非ともレジュメをお読みください。
その他,急いで書いたんで,おかしなところがありましたら,ご批判下さ
い。
目次
1. 川波洋一(九州大学)
2. 原正彦(明治大学)
3. 吉田暁(武蔵大学)
主張その1 理論は実務感覚からズレてはいけない
----------------------------以上,この投稿----------------------------
主張その2 私は実務感覚から内生的貨幣供給論を選んだ
主張その3 日銀券は政府紙幣ではなく,信用貨幣である
吉田さんの主張の肯定面
----------------------------以上,次の投稿----------------------------
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1. 川波洋一(九州大学)
「『貨幣資本と現実資本』の理論と21世紀の課題」
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・マルクスは偉いやっちゃ
・マルクス読まな,あきまへんでぇ
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2. 原正彦(明治大学)
「ケインズ自己利子率理論の再検討」
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・ケインズは偉いやっちゃ
・ケインズ読まな,あきまへんでぇ
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3. 吉田暁(武蔵大学)
「実務感覚からの理論への期待:信用創造論を中心に」
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主張その1 理論は実務感覚からズレてはいけない
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一般的な形に翻訳して言うと,まぁ,“当事者としてのわれわれの目の前に
与えられた事実(=感覚所与)から出発して,そういう事実に留まり続けろ”
ということです。ところが,われわれの目の前に与えられた事実とは言って
も,資本主義的生産の複雑な総体については,当の事実そのものがそれぞれ全
く矛盾し合うものとして現れます。例えば,貨幣資本(マニド・キャピタル)
の貸し手である銀行の立場から見える事実と,借り手であるリアル・キャピタ
ルの立場から見える事実とは全く異なります。従って,そういう矛盾し合う事
実から出発するのは当然なのですが,そういう事実に“留まり続ける”限りで
は,結局のところ,特定の実務的当事者の感覚所与──つまり実務感覚──を
保持しなければなりません。
ここで,特定の当事者の実務感覚とは,銀行マン(まぁウーマンでもいい)
の実務感覚のことです。ここでの銀行マンの中には,日銀マンも含まれます。
その実務感覚の内容は,一言で言うと,市中銀行の銀行マンの指先一つで,つ
まり預金口座の数字を増やすだけで通貨(預金通貨)が作り出されているとい
う事実です。
とは言っても,銀行業実務はその枠内においてもなお,別の事実を示してし
まうはずです。例えば,せっかく魔法で無から有を創り出した──指先一つで
通貨を創り出した──と言うのに,馬鹿な一般ピープルが愚かにもそれを“本
物のお金”であるゲンナマ(お札)という形態でATMで引き出して箪笥の奥に
しまってしまうという事実です。銀行は一般ピープルから,彼らが“本物のお
金”と信じて止まないゲンナマを預金口座に戻してもらうために躍起になりま
す。魅力的な金融商品として預金を“販売する”なんて根本的に狂ったことを
言うほどです。債務を売ってどうしようって言うのでしょうか。挙げ句の果て
に,年端のいかないガキにまで,仔豚の貯金箱をかち割って社会進歩に貢献し
ろと説教する始末です。
従ってまた,実務感覚に理論を従属させようとする人たちは,矛盾し合う諸
事実の中から自説に都合のいいように個別的事実を取捨選択しなければなりま
せん。そのようにして選び出されるのは,資本主義の完成形態,資本主義がそ
こに向かうべきモデルです[*1]。もちろん,現実の資本主義はそこまで発展し
ていませんが,完成形態を基準にすると,それに反する事実は総て未完成なも
のとして取り扱うことが可能になります。ところで,現代資本主義を貨幣面か
ら見ると,その“完成形態”は完成した銀行制度としてイメージされます。そ
して,完成した銀行制度の立場からは,さきほどの馬鹿な一般ピープルの行動
を笑い者にして,完成した銀行制度の位置付けから捨て去るということが可能
になります。こうして,さきほどの翻訳された命題は次のような形態を受け取
ります。──“われわれは完成形態から出発して,システム内部での未完成な
ものから完成したものへの発展を探らずに,どこにも旅せずに,完成形態に戻
ってこなければならない”。
[*1]まぁ,資本主義の“真の”完成形態は共産主義で
す。だから,こういう人たちは結局のところ,ドラッカ
ーと同様に,資本主義の中に共産主義の個別的な現実を
見付けようと躍起になるのです。
それでは,完成された銀行制度の立場から見ると,事実はどうなっているの
でしょうか?
先ず,銀行の預貸業務の中で“預”の方に着目してみましょう。──今日で
は,企業の鋳貨準備(手元にあって,すぐに使うことができるカネ)はもちろ
んのこと,流通から引き上げられた支払準備金も減価償却基金も蓄積基金も総
て(現金形態ではなく)預金形態で保持されています。個人の給与所得も預金
の移転によって(給与振込によって)行われます。これは疑いようもありませ
ん。小口流通の部面では,個人は現金でモノを買っているのですが,これも,
“信用制度の完成”をイメージすれば,だんだんと,小切手とかクレジットカ
ードとか,あるいはまた別のものとかに置き代わってくるってことになります
(日本の場合にはもっともっと凶悪犯──スリ・強盗・置引と,偽札造り──
が増えなければ駄目ですが,嬉しいことに増えてきています)。こうして,
“銀行制度の完成”というイメージのもとでは,遊休貨幣資本は預金形態でし
かあり得ないのだ──その場合には厳密には個別資本にとっても社会的総資本
にとっても“遊休”していないのだから,そもそも預金の源泉としての遊休貨
幣資本などというものは存在しないのだ──ということになります。完全に一
致するわけではありませんが,敢えて換言すると,“そもそも(派生的預金か
ら区別される)本源的預金などというものは存在しないのだ”ということにな
ります。
次に,銀行の預貸業務の中で“貸”の方に着目してみましょう。──今日で
は,銀行は貸付を行う際に最初に先ず無準備で預金を設定し,その後で準備が
足りなくなったら短期コール市場とかで準備を調達します。つまり,法定準備
率を越えて金庫で無駄に眠っている過剰準備しか貸せないなんて馬鹿なことが
ないのはもちろんのこと,そもそも最初に現金で本源的預金を集めてからその
後でそれが可能にする分だけ預金を設定して貸し付けるなんてこともしていな
いわけです。その上更に,現金の脱漏(バカな一般ピープルが──この偉大な
信用制度を守るなんて深遠なる配慮をもたずに──ATMで現金を引き出して箪
笥にしまっちゃうとか)がない限り,その調達される現金準備たるやこれもま
た,日銀預け金であって,紙っ切れとしての日銀券ではありません。短期市場
で日銀預け金が足りなくなったら,日銀がインチキ預金を設定します。これは
疑いようもありません。つまり,日常生活の諸現象が示しているのは,通貨供
給は日銀券とは無関係であるってことです。通貨を供給するのは個別銀行であ
って,日銀は(通貨供給に関しては,量的拡大という意味では)何にもできま
せん。“銀行制度の完成”を想定してこのイメージを一面的に徹底するならば
──そこまでやる人はいないかもしれませんが──,日銀券の消滅でしょう
な[*1]。つまり,実務感覚を持って理論的に徹底するならば,“実はこの日本
には(一万円という計算上の単位──計算貨幣──はあるが)一万円‘札’な
んてものは一枚も存在しないのだ”ということになるでしょうな。不幸にも今
のところ俺の財布の中には福沢諭吉とか夏目漱石とかが入っているんですが,
多分,これは,俺が無謀にも絶望的な仕方で社会進歩に逆らうユナ・ボマーだ
からでしょう(笑)。
[*1]まぁ,信用不安で取り付け騒ぎが起こったらどうな
るのか,ってなところですが,もちろん,“銀行制度の
完成”というイメージで現代社会を把握する限りでは,
信用不安は例外的状況──本質的ではなく,それ故に理
論的には捨象して構わない例外的状況──として現れま
す。「本質的ではなく」ってのがミソです。“正常な進
行のためには(たとえ本質的な特徴であっても)捨象せ
ざるを得ない”──ってぇのとは,根本的に違うわけで
す。
強調しておかなければならないのは,後でも述べますが,このようなイメー
ジは現代貨幣経済のクレジット・システムとしての一面を正当に把握している
ということです。まぁ,これも後で述べるように,現代社会は,進歩に反逆
し,紙っ切れに一喜一憂する,悲しきユナ・ボマーの一面──マネタリー・シ
ステムの一面──をも示しているのですが。
さて,上記の理論態度をもうちょっと難しい言葉で言うと,“われわれに与
えられている現実は相互的な関連の世界なのだから,発生的な関連を探るなん
てのは無意味だ”ということです。現代社会について発生的な関連を探るとい
うことは,労働の自己否定運動として現代社会を把握するということです。現
代社会における直接的な運動主体である資本に即して言うと,労働の自己否定
運動を資本の自己否定運動として把握するということです。
この発生的な関連において,資本はそもそも限界を持ったものとして生まれ
ます。資本は,その限界を(なくしてしまうのではなく)制限という形で乗り
越えます。しかしまた,そのように乗り越えるということによって,資本は自
分自身の限界を露呈します。
ところが,発生的な関連は直ちに相互的な関連に転回します。商品はやがて
資本を措定しますが,今度は資本自身が自己の前提である商品を措定するよう
になります。資本の前提が商品であるのと同じくらいに,商品の前提は資本で
す。資本の前提が賃労働であるのと同じくらいに,賃労働の前提は資本です。
こうして,発生的な関連は相互的な関連として現実化しています。
それだけではありません。正に資本自体が転倒した形態であり,それを発生
的に措定する現代的労働そのものがこの転倒性を生み出す転倒した労働である
からこそ,寧ろ積極的に,この発生的な関連は逆の関連として転倒的に現象す
るわけです。吉田さん流の議論では,資本主義的生産の“完成形態”をイメー
ジする限りでは,総ての商品は資本によって生産されているから,商品が存在
するためにはその前に資本が存在していなければならないはずです。これはそ
の通りでしょう。会社がなければサラリーマンは雇用されず,従ってサラリー
マンでさえないのですから,サラリーマンあってこその会社ではなく,会社あ
ってこそのサラリーマンです。これもその通りでしょう。これらの現象は,何
か悪徳資本家の見間違いとか思い込みとか勘違いとか,そういうものではな
く,現実にそうなっているわけです(もちろん,現実的転倒は認識的転倒とし
てヨリいっそう発展した形態で現象しますが)。
このことを,銀行制度下での利子生み資本の運動について見てみましょう。
──資本一般の完成形態は利子生み資本であって,総ての資本は利子生み資本
によって措定されたものとして現れます。簡単に言うと,銀行制度を前提すれ
ば,総ての資本は,他人資本(会計上の負債)についても自己資本(会計上の
資本)についても利子生み資本形態をとっています。もっと簡単に言うと,預
金が事業資本になるわけです。これはなにも,俺の勘違いではなく,われわれ
が日常生活で経験していることです。従って,吉田さん流の議論を徹底するな
らば,利子生み資本が産業・商業資本から生まれるのではなく,産業・商業資
本が利子生み資本から生まれると主張するべきでしょう。正に利子生み資本こ
そは総ての資本の発生源であると主張するべきでしょう。利潤が利子と企業利
得とに分割されるのではなく,機会費用としての利子を越える超過分を産業・
商業資本は企業利得として稼いでいると主張するべきでしょう。
それでは,このようなイメージを科学理論として捉えると,どのような問題
が生じるのでしょうか。──一番の問題は,信用制度の制限性が把握されない
──従ってまた,それを通じて資本主義的生産そのものの限界が把握されない
──ということです。
実際にまた,吉田さんの主張を聞く限りでは,そこには,信用制度は,信用
創造については──従ってまた通貨供給についても──,いかなる本質的・必
然的な制限をももっていません。もちろん,産業・商業資本の側の通貨需要は
制限されているでしょうが,これはこれで,現実的にそのようなものとして現
象している通りに,彼の議論でも,信用制度の遥か彼方(=外部)にありま
す。だから,信用制度そのものの内部には,制限性はないのです。
しかも,当然に,信用制度が資本にとって一つの制限になるということもま
た,欠落してしまいます。従って,少なくとも資本が信用制度という自己の運
動形態の中に留まり続けている限りでは,資本そのものはいかなる限界をも露
呈しないということになるはずです。まぁ,実際にはモノが売れないとか,コ
ストが高騰しちゃうとか,そういう手枷足枷があるのでしょうが,それは信用
制度の遥か彼方の話として現れるはずです。
なお,このような否定面はあくまでも「イメージを科学理論として捉える
と」という限定付きです。イメージをそのままの通りに,つまり社会的意識形
態として捉えると,却って吉田さんの主張の肯定面が見えてきます。これにつ
いては後述します。