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 浅川さん,ISM研究会の皆さん,今井です。
 ただいま多忙中に付き,訂正と質問への返答だけ先に投稿しておきます。
 先ず,訂正など。

>起点が、人格である以上、疎外に陥っても人格性は消えてなくなるわけでなく、物象
>(→経済的扮装)として存在しているということを確認しておきたかったわけです。逆
>にいえば、議論の対象という限定をはずせば、人格ならざる人間がありうることを認め
>ることはできると考えます。

 了解いたしました。これは俺の不注意でした。今後は,浅川説の解釈・説明
においては,人間(括弧なしの人間)とは類的本質としての人格──労働によ
って措定される人格──を指すことにしましょう。因みに俺は人間と人格と
を──常にというわけではありませんが──区別しています[*1]ので,解釈
上,この点にはご注意ください。

[*1]なお,マルクスは次のように述べています。──
「もし仮に個人Aが個人Bと同じ欲求を持っており,また
個人Bと同じ対象において自己の労働を実現したとすれ
ば,彼らの間にはなんらの関連も現存しないということ
になるでであろうし,彼らの生産という面から考察する
と,彼らはなんら相異なる個人ではないということにな
るであろう。二人とも呼吸する欲求を持ち,二人にんと
って空気は大気圏として実存している。〔だが,そうだ
からと言って,〕このことは彼らを社会的に接触させは
しない。呼吸する諸個人としては,彼らは自然体として
だけ互いに関連し合っているのであって,諸人格として
関連し合っているのではない。〔Wenn das Individuum 
A dasselbe Bedürfniß hätte wie das 
Individuum B und in demselben Gegenstand seine 
Arbeit realisirt hätte, wie das Individuum B, 
so wäre gar keine Beziehung zwischen ihnen 
vorhanden; sie wären gar nicht verschiedne 
Individuen, nach der Seite ihrer Production hin 
betrachtet. Beide haben das Bedürfniß zu 
athmen; für beide existirt die Luft als 
Atmosphäre; dieß bringt sie in keinen 
socialen Contact; als athmende Individuen stehn 
sie nur als Naturkörper zu einander in 
Beziehung, nicht als Personen.〕」(Gr, S.166)。
 この引用文を使って言うと,人間的自然は「自然体と
して」もやはり人間であるが,しかし「社会的に接触」
する時には「諸人格として関連し合」うのだと俺は考え
ます。
 なお,浅川さんが強調しておられる括弧付きの「人
間」はもちろん,単なる「自然体」のことではありませ
ん。俺は以前の投稿では,(i)自然体(もちろん意識し
ている自然体を含む)としての人間と(ii)物神性論での
人間と(iii)交換過程論での人間を総てゴッチャにして
議論していたように思われます。浅川さんの投稿での括
弧付きの「人間」という問題提起を受けて言うと,(ii)
と(iii)とは括弧付きの「人間」だということになりま
す。自分自身の内部では一応,区別するだけは区別して
きたつもりですが,浅川さんの投稿のおかげで初めて,
明確に区別することができるようになり,また区別の必
要性を感じるようになりました。

 次に,お答えなど。

>それから、「商品所持者自身が「人間」(括弧付きの人間)という側面と,“商品所
>持者という経済的扮装”という側面とを統一している」ということになると、扮装と
>しての商品所持者と統一するものとしての商品所持者との関係は、どのようなものと
>なるのでしょうか?

 質問の意味を今一つ掴みきれていないのですが,両者は同じものです。商品
所持者が商品所持者である所以は,商品を所持しているという点──正に商品
所持者という経済的扮装を纏っているという点──にあります。商品の運動を
現実的に媒介しているという点にあります。この点で既に,商品所持者は自由
意志で商品の(物象の)運動を人格的・社会的・自覚的に媒介するような,自
由で不自由な主体です。商品を手籠めにしながら商品によって手籠めにされて
いる──いや,正に商品を手籠めにするということが,そっくりそのまま(=
直接的に)商品によって手籠めにされるということである──ような自由で不
自由な主体です。
 “商品所持者は商品を所持する”[*1]。主語(主体)は何か? ──商品所持
者です。目的語(客体)は何か? ──商品です。しかしまた,これはそっくり
そのまま,“商品が商品所持者を自己の運動の媒介項にする”ということで
す。主語(主体)は何か? ──商品です。目的語(客体)は何か? ──商品
所持者です。商品所持者はこのような能動的で受動的な主体です。マルクスが
「商品所持者」という用語を,物神性論では全く用いず,交換過程論で初めて
用いているのも同じ理由によると考えます。

[*1]交換するでも販売するでも何でも構いません。

 商品から切り離された「人間」(括弧付きの人間)はそれ自体としては商品
所持者という資格を持っていないと考えます。商品を所持していない「人間」
は商品所持者ではないと考えます。
 商品所持者は商品所持者という側面と「人間」(括弧付きの人間)とを常に
統一しているのです。商品を所持していない(商品所持者という経済的扮装を
身に纏っていない)商品所持者は実存しませんし,「人間」(括弧付きの人
間)でない商品所持者も実存しません。しかし,商品所持者(統一としての)
を商品所持者たらしめる形態的本質(形態上の本質)は商品所持者という経済
的扮装を身に纏っているということにあるわけです。
 ひょっとすると浅川さんのご質問の含意は,“商品所持者という経済的扮装
は,商品を所持しているような人間(「統一するものとしての商品所持者」)
からは独立的に定義されなければならない”ということなのかもしれません。
──これに対するお答えは,Noです。商品所持者という経済的扮装は商品を所
持しているような人間(「統一するものとしての商品所持者」)と一体のもの
です。商品を所持しているような人間が商品を所持しているような人間として
受け取っている仮面が経済的扮装であり,これは正に経済的・機能的・事実的
であるからこそ,いわゆる法的擬制にはならないと俺は考えます。これは法的
人格とはちょっと違う点です。赤ん坊は法的人格にはなりますが,商品所持者
にはなりません。
 以上の点は,恐らく,浅川さんによる現実的人格と人格の扮装──この現実
的人格が纏っている扮装──との区別に関連していると思うのです。この点に
ついては,次の投稿で問題にします。