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神山さんこんばんは。一筆書いていただきありがとうございます。
> (少なくとも初期の)ドラッカーの社会システム論の機軸は、社会的共通
> 意志による統合にあるといえるかもしれません。これはもちろん上部構造
> といってもいえないこともないでしょう。しかし、はじめから、社会とは
> 建前を中心部分として含んでいるのだ、といっているだけで発生的把握で
> ないことは言うまでもありません。
市民社会への諸成員の統合を軸に社会をとらえようとする点で、ドラッカーも
新左翼理論も、渡辺治のような護憲リベラル政治学も似たようなもののように思
います。さいきんのサラリーマン社会の崩壊を見て、リベラル派は分裂の時代と
か社会契約の危機だとか騒いでますし、新左翼のほうはふたたび危機の時代が来
たと喜び、出世した同期の連中が落ちぶれるのを見てざまあみろと思っているよ
うです。もともと新左翼は現実から何も学ばないのが強みでありまして、かつて
の“安定期”にはぎゃくにシステムの完結を説き、外部から革命を持ち込むしか
ないと言っておりました。
この手の「基軸−周辺」図式らしきものがマルクスの叙述にもたまに出てきて、
利用されているのではないかと思いますが。「ヘーゲル法哲学批判序論」にプロ
レタリアートは「世の中の秩序の事実的解消」だという議論が出てきますし、
『共産党宣言』にも旧い公的社会の解体の話が出てきますよね。
> 崩壊する弁護論がドラッカーの本質だとすれば、危機意識とは弁護論の顔
> であり、弁護論が危機意識であらざるをえない資本の自己批判性、自己否
> 定できない自己否定こそわれわれが捉えるものです。危機意識は危機意識
> の遠のきによって乗り越えられようとするが一貫せず、
> 「マネジメントの正当性を明らかにするものが存在しない」と『新しい現
> 実』(1989)で書き、正当性不在をみとめつつ、事実的正当性の寄せ集め
> をすることになります。
ドラッカーはブルジョアイデオローグとしての自覚性が非常に高い弁護論者と
いうか、半分ウソと知りつつウソを手をかえ品をかえ並べる山師的なところがあ
って、この点で初期も後期も変わってないような気もします。