本文
浅川さん,ISM研究会の皆さん,今井です。
目次
0. いろいろと細かい点
1. 経済的扮装とは何か?
2.「物象とセット」の人格とは何か
3. 物象の人格化について
4. 物象の「主体化」について
ちょっと最近忙しくてどうもうまく纏められずに,だらだらと書いてしまい
ましたが,ポイントになるのは,浅川説で物象の主体化=人格化が物象化とど
のように区別されているのかということです。
神山説と今井説との対立では図式そのものが決定的に違ったわけでしたが,
浅川さんの投稿を読む限りでは,どうも,浅川説と今井説との対立では少なく
とも図式そのものは親和的であるような気がするのです。だから,浅川さんが
述べている物象の人格化=「主体化」というのを把握することができれば,互
いに通訳可能になり,対立点がもっとすっきりすると思うのです。
0. いろいろと細かい点
その一。
>意思的な能動性も、社会形成性も、“人格”に属するものと
>して現れます。このような統一と、商品所持者プラス商品という統一を区別していま
>す。
うーん,これ自体は俺も区別していると思うのですが……。ただ,“違って
いてもやっぱり統一なんだから,もはや分裂を止揚しているのですから,浅川
説に従っても,統一の能動性が物象の方にあろうとも,やっぱり「商品所持者
プラス商品」は人格だろう”と考えたわけです。
えーと,浅川さんの図式で,出発点としての類的本質が人格であるのは何故
なのでしょうか? ──図式を見る限りでは,まだ「物象の連関」と括弧付き
の「人間」とに分裂していないからであるように見えるのです。終着点として
の二重クオテーションマーク付きの“人格”が人格であるのは何故なのでしょ
うか? ──図式を見る限りでは,既に分裂を止揚しているからであるように
見えるのです。もし出発点と終着点とに共通であるのが“統一”であるなら
ば,当然に,「商品所持者プラス商品という統一」も人格だろうと言っている
わけです。
あるいは,ひょっとすると,これは俺の誤解であって,浅川さんは人格のメ
ルクマールを,「意思的な能動性も、社会形成性も、“人格”に属するものと
して現れ」るという点に見出しているのかもしれません。しかし,明らかに,
「として現れる」という限定は出発点としての類的本質には妥当しません。そ
うだとすると,浅川さんは人格のメルクマールを,「意思的な能動性も、社会
形成性も、“人格”に属する」という点に見出しているのかもしれません。そ
うだとすると,商品所持者は一体に誰の意志で交換過程に現れているのかとい
うことが問題になります。商品所持者は自分の「意思的な能動性」で交換過程
に現れており,自分の「意思的な能動性」で交換相手を見出し,自分の「意思
的な能動性」で承認し合うのではないでしょうか?
以上,類的本質と二重クオテーションマーク付きの“人格”とが人格である
のに対して,「商品所持者プラス商品」という統一における商品所持者──こ
の実存を浅川さんは認めていらっしゃる──が人格でない理由が俺には明確で
ないのです。
その二。
>「身に纏」っただけでは、商品所持者は消えませんし、“人格”も成立しません。
正直に言って,「商品所持者は消えませんし」というのがよく解りません。
まぁ,個別的な当事者を見ると,商品所持者は商品を販売して貨幣を取得する
と,貨幣所持者に転化します。でも,ここでは,そういうことを言っているの
ではなく,二重クオテーションマーク付きの“人格”の「成立」との関連で
「商品所持者は消え」るということを述べているのですよね?
浅川説では,二重クオテーションマーク付きの“人格”が成立すると,「商
品所持者は消え」てしまうのでしょうか? そうだとすると,誰が商品の運動
を媒介しているのでしょうか?
私的所有者? もちろん,そりゃそうでしょう。けれども,私的所有者が発
生しても,商品所持者が消えるなんてことはあり得ないと俺は考えます。これ
は貨幣所持者,資本家を入れて考えてみると,一目瞭然ではないでしょうか。
もし私的所有者の発生によって商品所持者が消えてしまうのであれば,どう
やって貨幣の人格化,資本の人格化が発生するのでしょうか。どうやって商品
所持者と貨幣所持者と資本家とは区別されるのでしょうか。
私的所有者同士が相対し合っていても,この当事者が所持している物象の区
別に応じて,経済的に異なる振る舞いをするでしょう。商品所持者と貨幣所持
者とでは,経済的に異なる振る舞いをするでしょう。資本家と労働者とでは,
経済的に異なる振る舞いをするでしょう。この区別は私的所有者(二重クオテ
ーションマーク付きの“人格”)の区別でしょうか,それとも物象の区別でし
ょうか? 物象が異なるからこそ,物象の異なる運動に応じて人格も異なる運
動をするのではないでしょうか?
このように,二重クオテーションマーク付きの“人格”が成立しても,「商
品所持者は消え」ないと俺は考えます。寧ろ逆に,商品所持者という人格と二
重クオテーションマーク付きの“人格”(法的人格)とは絶えず矛盾し合いな
がら運動すると俺は考えます。
1. 経済的扮装とは何か?
>承認を経てはじめて、既に人格化(主体化)してたいた物象が経済的扮装
>として通用するようになるのではないかと考えるようになりました。
確認すると,浅川さんの定義では,経済的扮装は承認された姿なのです
ね? そうだとすると,経済的扮装は法的人格・私的所有者──すなわち法的
人格というペルソナ(仮面),私的所有者というペルソナ(仮面)──と同じ
ものと考えても宜しいのでしょうか?“経済的=法的”ということでしょう
か? それならば,何故にわざわざ浅川さんは“経済的”なんて形容を行って
いるのでしょうか。例えば“法的扮装”と言う方が,浅川さんの理論内容を遥
かに適切に表現しているように思われるのですが……。
これに対して,今井説では,経済的扮装は正に“経済的”扮装でなければな
らないのです。既に何度も述べているように,今井説では,経済的扮装とは,
商品所持者,貨幣所持者,資本家のことであり,そのそれぞれに商品の人格
化,貨幣の人格化,資本の人格化が対応しています(労働の人格化とか土地の
人格化とかを含めても構いません)。もちろん,商品所持者も貨幣所持者も資
本家も私的所有者として承認されます。商品所持者も貨幣所持者も資本家も私
的所有者として正当化されます。経済的扮装は法的人格として妥当します。と
ころが,商品所持者は商品所持者として承認されるのではなく,貨幣所持者は
貨幣所持者として承認されるのではなく,資本家は資本家として承認されるの
ではなく,そうではなく,いずれも,自由・平等な私的所有者として承認され
るわけです。経済的扮装は経済的扮装として承認されるのではなく,法的人格
として承認されるわけです。システムが安定的に媒介されるという想定の下で
は,どの当事者ものっぺらぼうな,無内容な,なんの区別もない──従って階
級対立もない──,自由で平等な私的所有者として承認されるしかなく,これ
が法的な人格をなすわけです。
これは資本家と労働者との交換を考えてみると一目瞭然ではないでしょう
か。資本家と労働者との交換関係は,資本家と労働者との交換関係としては,
法的に自由・平等な関係ではありません。資本家と労働者との交換関係は,た
だ私的所有者同士の関係としてのみ,法的に自由・平等な関係であり得るわけ
です[*1]。経済的扮装と法的人格とは対立するのです。階級関係と契約関係と
は対立するのです。搾取と私的所有とは対立するのです[*2]。
[*1]もちろん,そこに至る媒介項として,資本家と労働
者との交換関係は,貨幣所持者と商品所持者との交換関
係に還元され,後者は後者で,商品所持者同士の交換関
係に還元されるわけです。しかし,商品所持者は商品所
持者で,承認された形態としては私的所有者という形態
しかもっていません。
[*2]もちろん,現在では,これらの諸対立は暴露されて
もいます。しかしまた,これこそは資本主義的生産の危
機であり,この危機を解明するためには危機ならざる関
係を厳密に解明しなければならないと考えている次第で
す(この点では浅川さんも同じはずです)。
2.「物象とセット」の人格とは何か
同じ質問を繰り返すようで誠に申し訳ないのですが,主体化が人格化である
理由がよく解らないのです。換言すると,主体化が物象化でない理由がよく解
らないのです。
>浅川説における「商品所持者」は、自分の内在的性格としては、もはや人格性を持って
>いませんが、しかし、物象としてそれを“持って”おり、この物象とセットでならやは
>り人格です。
それならば,浅川説に従うと,この人格──「物象とセット」の人格──は
括弧なしの人格なのか,それとも“人格”(二重クオテーションマーク付きの
人格)なのかという問題が解釈問題として生じます。この点につていて,浅川
さんは次のように述べています。──
>このとき、物象はもはや、「人間」を引き回すものではなく、“人格”の意思の支配に服
>するものとして現れます。意思的な能動性も、社会形成性も、“人格”に属するものと
>して現れます。このような統一と、商品所持者プラス商品という統一を区別していま
>す。
そうだとすると,上記の人格──「物象とセット」の人格──は括弧なしの人
格(本源的統一としての人格)だということになるはずです。何故ならば,そ
れは「このとき〔=相互的承認時〕」に発生する人格から「区別」されなけれ
ばならないからです(これは俺の考えと同じです)。
ところがまた,浅川さんの図式では,括弧なしの人格は,正に物象化を経る
前にこそ──「物象の連関」と括弧付きの「人間」との分裂を経る前にこそ
──,発生しているはずです(これは俺の考えと同じです)。これに対して,
「物象とセット」の人格は,「類的本質としての人間」が括弧付きの「人間」
と「物象の連関」とに分裂しているからこそ──分裂を経た後にこそ──発生
しているはずです。従って,上記の人格──「物象とセット」の人格──は括
弧なしの人格でもないということになります。
こうして,浅川説では,上記の人格──「物象とセット」の人格──は(i)
括弧なしの人格(本源的統一としての人格)でも(ii)“人格”(二重クオテー
ションマーク付きの人格)でもないということになるように思われます。従っ
てまた,浅川説でも,やはり中間項としての──つまり括弧なしの人格と“人
格”(二重クオテーションマーク付きの人格)との間での中間項としての──
人格が想定されなければならないように思われます。
これが俺の言うところの商品所持者であり,承認の主体でありながら,承認
された抽象的な姿に対しては具体的な姿です。承認された振る舞い──自由・
平等な私的所有者の振る舞い──とは矛盾する具体的な姿です。
3. 物象の人格化について
浅川説では,物象の人格化が何故に物象の人格化であるのか,俺にはよく解
らないのです。と言うのも,人格化によって措定されるのは「資本主義におけ
る人格性」であって,人格(出発点としての人格であろうと,二重クオテーシ
ョンマーク付きの人格であろうと)ではないからです。浅川説では,人格の人
格的定在[*1]とは全く無関係に人格化が発生しているように思われるのです。
浅川説の最大の独自性は現実的な人格の措定──浅川説では二重クオテーショ
ンマーク付きの人格の措定──に先行して,現実的な人格性──浅川説では
「資本主義における人格性」──が措定されるという点にあるように思われま
す。今井説では,物象化から区別される人格化において,「主体化した物象」
は人格(物象から区別されるような)なのですが,どうも浅川説では,「主体
化した物象」は物象(人格から区別されるような)であるように思われます。
[*1]要するに,商品ではなく自然人が人格として定在し
ているということです。
しかし,そうだとすると,現実的人格(物象から区別されるような)がない
現実的人格性とは何のことでしょうか。物象の人格性のことではないでしょう
か? 要するに,物象が能動性を獲得するということではないでしょうか? そ
れならばそれで,人格の物象化によって,既に物象はそのような能動性を獲得
しているのではないでしょうか? 要するに,人格の物象化(物象の人格化か
ら区別されるような)の中の一段階に過ぎないのではないでしょうか?
浅川説では,物象の人格化の段階では,人格は「物象の連関」と括弧付きの
「人間」とに分裂しているままですから,「資本主義における人格性」は「物
象の連関」に属しており(つまり物象の人格性であり),人格の人格性ではな
いはずです。何故ならば,浅川説では,人格は──この分裂の前であろうと後
であろうと,つまり「類的本質としての人間」であろうと二重クオテーション
マーク付きの“人格”であろうと──この両側面が統一された時にのみ存立し
ており,これに対して,分裂の真っ最中には人格は物象という形態でしか存立
しておらず,従って人格は人格としては存立していないはずだからです。
しかし,やはりまた,人格の人格性ではないような人格性とは物象の人格性
以外のなにものであるのでしょうか? そしてまた,もし「資本主義における
人格性」が物象の人格性であるならば,浅川さんがおっしゃる「人格化」とは
物象化そのものではないのでしょうか? 少なくとも,物象化の内部の一段階
であるのに過ぎないのではないでしょうか? 物象が人格を措定せずに「人格
性」を展開するというのは価値形態論での話ではないでしょうか。
4. 物象の「主体化」について
俺には,浅川さんが言うところの物象の「主体化」というのがよく解らない
のです。主体化するのだから,現実的人格が主体として措定されるはずです
が,この主体の位置付けがよく解らないのです。一言で言うと,物象の「主体
化」が人格の物象化とどのように違うのか,よく解らないのです。
浅川説でも今井説でも,物象化が人格化に先行しているわけです。従って,
人格化=主体化と言う時には,単に物象が主体になるというだけではなく,こ
の主体性,能動性を物象ではないもの(今井説では人格)が担わなければなら
ないはずです。つまり,ここで措定される主体は物象そのものではなく,物象
ではないもの(今井説では人格)でなければならないはずです。もちろん,一
方から見ると物象化は人格化の契機であり(つまり人格化は物象化を包含して
おり),他方から見ると人格化は物象化の契機である(つまり物象化は人格化
を包含している)のですが,しかし,このツリーでは,浅川さんは,物象化か
ら区別されるという点で,人格化に言及しているはずです。要するに,ここで
の議論においては,物象化と人格化とは区別されなければならないはずです。
──以上を自明の前提として確認しておきます。
一応,浅川説でハッキリしているのは次の点です。物象の主体化によって措
定される主体については,──
1.それは商品所持者(括弧付きの「人間」)ではない。
2.それは私的所有者・法的人格(二重クオテーションマーク付きの
“人格”)ではない(物象の主体化としての人格化は私的所有者
の措定としての物象の人格化に先行する)。
3.それは出発点であるような「類的本質としての人間」ではない
(もちろん物象の主体化=人格化によって措定されるものは,ど
のように否定されていようと,どのように転倒的に現れようと,
やはり類的本質であるが,しかし出発点での類的本質ではな
い。何故ならば,本源的統一が一旦,解体されたからである)。
4.それは経済的扮装ではない(これは今回の投稿で明確になった点
である)。
──以上,この主体が何“ではない”のかということはよく解る(賛否は別に
して)のですが,何“である”のかということが今一つよく解らないのです。
今井説では話は単純かつ乱暴なんです。商品所持者の措定も貨幣所持者の措
定も資本家の措定も賃金労働者の措定も地主の措定も私的所有者の措定も全
部,狭義の人格化──そしてこのツリーでは狭義の人格化のことだけを指して
います──なのです。けれども,私的所有者の措定に先行して措定されるのは
何かと言うと,一言で言って商品所持者です。これ以前の理論的段階(つまり
物神性論の段階)では,商品=物象(実は人格)の社会的性格を物の属性とし
て受動的に,受身風に知覚する(=受け取る)「人間」がいるだけであって,
これは主体としての資格を──従ってまた社会を形成する主体としての資格を
──もっていません(社会形成主体の発生に必要な前提条件ではあります
が)。価値関係によって社会を形成しているのはあくまでも物象(もちろん人
格の物象化としての──人格の否定態としての──物象)です。
あるいは,人格化が“人格”の措定でなく“人格性”の措定であるのと同様
に,主体化も主体の措定ではなく“主体性”の措定なのでしょうか。しかし,
それならばそれで,“人格”がない人格性というものが解りにくいのよりも更
に一層,主体がない主体性というものは解りにくいのです。もし主体がない主
体性というものにわれわれが言及するとすれば,それは人格的主体の主体性で
はなく,物象の主体性そのもののような気がするのです。そして,人格的主体
の主体性を抜きにした物象の主体性そのものの発展は,人格化からは区別され
るような物象化の契機だと思うのです。
さて,浅川さんは物象の主体化について,次のように規定しています。──
>物象が主体化しただけでは、つまり、商品
>所持者を自分の運動の媒介物にしているだけでは、
この「媒介物」とは一体なにものでしょうか? 商品所持者ではないでしょ
うか? 「商品所持者を自分の運動の媒介物に」するのですから,しかも浅川
説ではここではまだ法的人格=私的所有者は発生していないのですから,「媒
介物」は商品所持者ではないでしょうか?
第一の解釈。もし(i)それが商品所持者であり,(ii)この媒介物の措定が物
象の主体化であり,(iii)物象の主体化が物象の人格化であるならば,──こ
の三つの仮定が満たされるならば──,浅川説に従うとしても,少なくとも,
“承認される以前に,人格になっているという段階もまた商品所持者にはあ
る”ということになるのではないでしょうか? つまり,少なくとも,商品所
持者には人格になっていない段階と人格になっている段階とがあるということ
になるのではないでしょうか? もしそうならば,浅川説は今井説に通訳可能
です。
俺が“商品所持者は物象の人格化として人格である”と述べる時には,それ
は“人格になっている段階”──ヨリ正確に言うと物象の人格化として人格に
なっている段階──における商品所持者のことを述べているのです。
第二の解釈。逆に,もしこの「媒介物」が──浅川さんの用語法で──商品
所持者ではない(例えば物象主体化である)のであれば,それを指す名辞(例
えば物象主体化)こそが今井説で言うところの商品所持者であるのであって,
なんとか通訳可能です。と言うのも,上記引用文では,物象が自己の運動の媒
介物にしているのは物象そのものではなく,商品所持者だからです。つまり,
上記引用文では,浅川さんは,単に物象が能動的に振る舞う(物象化)という
ことを述べているのではなく,物象の能動的な振る舞いが商品所持者──これ
は商品ではなく,従ってまた物象ではありません──を媒介物にすると述べて
いるからです。要するに,上記引用文では,浅川さんはクリアに物象化と人格
化とを区別しているわけです。
俺の考えでは,この物象主体化が既に(承認される以前に)物象の人格化と
して人格なのであって,相互的承認の主体になるわけです[*1]。前の段落での
浅川説解釈では,それまでは商品所持者と呼ばれていた主体が物象の「運動の
媒介物」になるということによって,この主体の名前が商品所持者から物象主
体化に変わっただけの話です。
[*1]本当は,“これこそは経済的扮装だ”とおっしゃっ
ていただければ,このような同義反復はしないですむの
ですが,今回の投稿では,経済的扮装は承認によって発
生するというように定義されているので,このように述
べておきます。
いずれにせよ(第一の解釈に立とうと第二の解釈に立とうと),“物象の
「主体化」”とは“物象が商品所持者を自己の運動の媒介物にする”というこ
とであるという定義は今井説にかなり親和的です。従ってまた,対立点もクリ
アになります。問題が残るのは,次の定義の方です。──
>「人間」が物象
>にひれ伏すから物象は能動的な力を、支配的な力を持つことになるということを物象
>の主体化と考えました。
これを見る限りでは,“物象の「主体化」”とは「物象は能動的な力を、支
配的な力を持つことになるということ」であるという定義が採用されているよ
うに見えます。
しかし,これが主体化=人格化なのでしょうか。俺には物象化そのものであ
るように思われます。確かに,物象というのは日常用語であって,マルクスも
かなりいいかげんに使っています。ですが,ここでの議論では,俺はあくまで
も“物象とは人格的生産関係が物象化したもののことである”と定義していま
す。そして,俺の考えでは,物象化が人格化に先行するということになってい
ます。そうだとすると,俺の定義では,“「能動的な力を、支配的な力を持」
っていないような「物象」はあり得ないのだ”ということになります。浅川さ
んの図式を見る限りでは,恐らくこの点には対立はないように思われます。そ
うだとすると,浅川説に従っても,「物象は能動的な力を、支配的な力を持つ
ことになるということを物象の主体化と考え」るという規定は少なくとも不十
分な規定であるように思われます。
ところが,どうも,上記の規定によると,「能動的な力を、支配的な力を
持」っていないような「物象」というものを,浅川さんは想定しているかのよ
うに見えます。「物象は能動的な力を、支配的な力を持つことになる」のであ
れば,まだ「能動的な力を、支配的な力を持つ」のに至っていないような物象
もあるということになります。この解釈は正しいのでしょうか? そうだとす
ると,やはり,浅川さんがここでおっしゃる「物象の主体化」は,今井説で
は,物象化そのものであるように思われるのです。それならばそれで,今度
は,“「能動的な力を、支配的な力を持」っていないような「物象」を措定す
るところの物象化とは一体どのようなものなのか”という疑問が生じるわけで
す。つまり,物象化とは一体どのようなものなのかという疑問が生じるわけで
す。
あるいは,ひょっとすると,浅川説では,物象化においては「「人間」が物
象にひれ伏す」という契機がないのかもしれません。浅川説では,「物象にひ
れ伏す」ということ自体が物象を──従ってまた人格の物象化を──前提して
いるのであって,物象化の後で「「人間」が物象にひれ伏す」という事態が発
生し,これによって物象の主体化=人格化が発生するのかもしれません。この
解釈の方が正しいのでしょうか? そうだとすると,「物象にひれ伏す」とい
うのがどういうものなのか,現実的に能動性を疎外している(この場合には意
識において「ひれ伏す」ということは要件ではない)ということなのか,意識
において物が生まれながらに価値を持つと知覚している(あるいはまた意識に
おいて「ひれ伏す」ということを通じて現実においても「ひれ伏す」)という
ことなのか,どちらなのでしょうか?
第一の解釈。もし前者ならば,それはそれ自身としては物象化から区別され
ないように思われます。すなわち,浅川さんがここで言及している「ひれ伏
す」ということは,浅川さんが“[ism-study.74] Correcting my scheme”
(2000/03/10 01:22)で述べているような,「類的本質を物象の連関として自
己から疎外する」ということ──これが物象化に相当すると俺は解釈します
──から区別されないように思われます。もし区別され得るのであれば,「自
己から疎外する」ということと「ひれ伏す」ということとの決定的な違いが論
証されなければなりません。
第二の解釈。もし後者ならば,それは確かに,現実的転倒としての物象化か
らは区別されなければなりません(もちろん,これ自体は物象化の契機なので
すが,意識に対しても転倒的に現れるという段階は独自の段階として物象化に
おいて区別されなければなりません)。しかし,それは物象が物神として──
商品が商品物神(Warenfetisch)として意識に対して現れたということでしょ
う。それならば,浅川説では,人格性とは現実にはない意識の産物のことだと
いうことになります。人格化は現実的転倒ではない認識的転倒だということに
なります(因みに,俺はこれは人格化の問題ではなく,物神崇拝の問題だと考
えます)。しかしまた,それならばそれで,そのような意識された人格性はそ
もそも「物象の連関」に属するものではなく,括弧付きの「人間」とは切って
も切り離せないということになります。それならば,そもそも人格性は「物象
の連関」の極にあるのではなく,括弧付きの「人間」の極にあるということに
なるはずです。何故ならば,意識を持っているのは括弧付きの「人間」であっ
て,「物象の連関」ではないからです。
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以上,纏まっておらず,申しわけないのですが,宜しくご教示ください。