本文
今日は、神山です。
人格と物象。
> >株
> >式会社は直接には資本の人格的媒介様式である。
>
> この点は,説明するのが結構,難しいですね。私的所有者一般も資本家も株
> 式会社も資本の人格的な媒介形態である。ところが,三者の間には質的な区別
> がある。資本家を捨象して単純に言うと,個人的な私的所有者は所有する人格
> であり,株式会社は所有する物象だということになる。しかし,それならば,
> (1)個人的な私的所有者は真の人格なのかということになる。そんなわけはな
> いのであって,個人的な私的所有者は物象の人格化であり,ほかならないこの
> 物象というものを措定する人格があるはずである。だから,個人的な私的所有
> 者は人格ではあるが,物象の人格化としての人格,物象としての人格である。
> 逆に,(2)株式会社はやはり法的な人格として人格ではないのかということに
> なる。その通りなのであって,株式会社は直接的に自己を人格として妥当させ
> ている物象(非人格)であり,自己を正当化させる媒介的な実現形態を無媒介
> 的(直接的)に措定してしまった物象,人格としての物象(非人格)である。
> 私的所有者一般が人格であるというのがそもそも矛盾しているのだが,株式会
> 社は今やこの矛盾を暴露するまで発展させている。──図式化して言うと,こ
> んなところでしょうか。
ここはややこしいところですね。こういう原型的な問題がじつはもっと
もむずかしい。私もなかなかつめきれません。ちょっとずれるかもしれま
せんが、考えてみます。
かなり一般的。人格とは、自由な自己意識ということ。自由とは、対象
と自己を自己の連関にして自己を拡大すること。この拡大において、他の
人間が連関に入り込み、相互承認している。自由は社会的である。
商品生産の自由人。しかし、個別の生産が完全に孤立していれば、この
生産における人格性は直接にはない。が、生産当事者は、生産の全体とし
ては、依存して分業している。他人と接触するのは交換であり、ここに私
的所有者として相互承認しあう。法的規定としての自由、人格は、ここに
なりたつ。私有財産をもって自由に売買することは、王権や家父長制とい
う所有形態を想定しない。
物象のすばらしさ。W1−G−W2では、だれもがW2ほしい、と自分の
欲望しか頭にないのに、W1を他人のためにつくり他人のためのの行動を
している。Gという簡潔な情報で、言葉の通じないやつとも交換できる。
さかだち。だが、もっているW1は、早く他人に渡さないと、くさって
しまう。他人のもっているW2がこなくなる。他人、それはW2の仮面さ。
所有者でなく、所有される物象のほうがご主人だ。
構図。ここでは、人格・私的所有者と物象(反人格)(「物」として認
知される)。とりあえず、これなら安定システムです。皆だまされて幸せ
です。
会社は物。売り買いできる物です。法律的には、合名会社は人的会社で
出資者・社員は、その地位の移転が困難であるのに対し、株式会社は、会
社財産こそが重要であって、社員はだれでもよく、会社債務に責任もあり
ません。資本中心の団体、物的会社というわけです。この場合の会社の中
身は、物象です。これが、株主の意思を跳ね除けて、G-W…P…W’‐
G’として運動するわけです。物のくせをしてなんてこった!
会社も人。しかし会社は、財団ではありません。他の会社形態と同じく
株式会社も社団法人、「複数人の結合体」(大隈・今井『会社法論』有斐
閣16頁)です。法人格とは、「企業の所有者たる複数人を一つの団体に結
合し、かつこれに企業の所有権を単一的に帰属せしめる…仕組み」(17頁
)。会社イコール私的所有者といっても、奥村の本にあるように、「有限
責任」、それはずるいじゃないか、という疑問は最初からつきまとってい
ます。私有財産制の仕組みを一生懸命拡大したわけです。
> >「誰からもチェックされない経営、それはまさ
> >に経営者天国であるが、法人資本主義の日本でそれは全面的に開花した」(42
> >頁)。
>
> ちょっと茶化して言うと,“誰からもチェックされない経営,それはまさに
> 経営者地獄である”。経営者天国は経営者地獄に一転するということが日債銀
> 破綻で暴露されました。ちゃんとチェックしておいてもらえば,取締役も監査
> 役も株主総会も無責任だ──これはこれで資本の普遍的な実存様式です──と
> いうことで,“悪いのはシステムですよ”と言って,なんとか収まったのかも
> しれないのに。その場合にはその場合で,今度は刑法の個人主義的原則の破綻
> という形態でシステムそのものの矛盾が暴露されてしまうでしょうが……。天
> 国は実は地獄だったのです。
責任法則の転回!個人責任主義は個人に責任なき事を暴露し、無責任主
義は地獄に転換。
> >かし、形骸化は、株式が分散していなくても、格差がなくても、さらに法人所
> >有がなくても、またヤクザ資本主義でなくても、起りうる。株式会社の形態そ
> >のものにおいてありうる。株式分散型でも、機関所有でも起きるということは
> >さらに、それらの前提として、資本運動が形骸化を自分の手段にするからであ
> >る。
>
> 神山さんがおっしゃる「株式会社形成の史学的な説明」というのは,典型的
> には,個人企業→合名会社→合資会社→株式会社という歴史的発展に即して,
> 発生“史”的に──発生的に(つまりシステム内部の発生的関連から)ではな
> く──株式会社を説明する理論態度ですね。例えば大塚久雄。発生的と発生史
> 的,──どちらもドイツ語に直すとgenetischですが,その内容は天と地ほど
> 違います。
> 歴史的説明──つまり現在の株式会社の説明ではなく,過去の株式会社の説
> 明──としては,このような説明は正しい一面を含んでいます。何故に全面で
> はなく一面なのかと言うと,歴史ははそれを反証するような偶然的な個別的事
> 実(あるいは少なくともそれを相対化するような偶然的な個別的事実事実)を
> もまた示しているからです。
> 神山さんが,「起りうる」,「ありうる」と述べているのは,このような個
> 別的事実についてですね。つまり,個別的事実に即しても,形骸化はいつでも
> どこでも「起りうる」,と。これに対して,理論的位置付けに即しては,形骸
> 化は一定の局面では「起りうる」どころか“起こらなければならない”わけで
> す。そもそも個別的事実に即しても「起りうる」のはシステムそのものが必然
> 的に要請しているからだったわけです。
ここは書きながらいまいちだなと思ったところですが、うまく説明して
くださりありがとうございます。
株式の分散にせよ、法人化にせよ、それは、所有と機能の分離の実現諸
形態なのであって、それらからこの分離を説明するは転倒なのです。個々
の事実としては形骸化はおこりうるが、資本の必然的な媒介として「起こ
らなければならない」のです。法人化が進んでいなかった状況では、日本
の株式会社は、株主総会が民主的に開かれていたのでしょうか。一寸考え
ても奥村の説明は一貫しません。
> 俺に言わせると,新自由主義のポイントは“プリバータイゼーションがバラ色
> の未来を齎す”ということにあり,これは“ナショナリゼーションがバラ色の
> 未来を齎す”ということの一卵性双生児です。もちろん,現状では,前者の方
> が後者よりも進歩的です(当たり前!)が,非現実的ということではどちらも
> 同じです。俺は,圧倒的少数派である反動的左翼をいつまでも相手にしていて
> も仕方がないのであって,進歩的右翼を徹底的に批判するべきだと考えていま
> す。
これはちょっととりとめもないんですが、新自由主義は、古典派経済学
が生産力発展を使命にした点で、人類の幸福の味方だ、といえるのと同様
、「進歩的」だということは、今井さんのおっしゃるとおり「当たり前」
ですよね。これに対し、これ以前の批判派たちは、疎外の直感において価
値があり、俗流経済学の予定調和的世界はこれの裏返しで俗物的である。
新自由主義の国家に対する民間の対置は、民間そのものの権力を隠蔽する
ので、国家に対する左翼、しかし反動ともいえます。新自由主義問題重要
ですね。というより、どちらもおなじなのだ、ということですね。マル経
から新自由主義に転向するやつがふえるでしょうが、逆に非マル経は規制
論者になります。だいたい、日本に激しい新自由主義者っていない気がし
ます。「血を流すけど改革だ」なんて左翼でしょう、まるで。「右翼」と
いうと、『発言者』だけでなく、『大航海』とか『思想』とかもそういえ
ないこともないです。
>法人所有という特殊
> 的な一形態においてではあっても,それでもやはり私的所有の止揚に着目して
> いる奥村さんは,凡百のマルクス経済学者の諸君よりもよほど優れていると思
> います。素晴らしい現実感覚の持ち主です。
所有史観において、物象の自立化を着目しているといってもいいかもし
れません。マル経の伝統的な「経営者支配論」=まやかし論よりましだと
おもいます。
奥村さんは、中央大学では、いつもお疲れの様子で、いい人のようです
。講義出席者の話では、朝の1校時に、出席を採らないので、少ない学生
を相手に一所懸命だったそうです。