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神山さん,ISM研究会の皆さん,今井です。神山さん,コメントご苦労様で
した。
神山さんのコメントは包括的であって,本来ならばその最も包括的な部分で
ある「1 資本主義が現代の問題。なぜ株式会社か。」からコメントを始める
べきなのでしょうが,取り敢えず,「2 思考の破産から、システムの自己批
判へ」での個別的な論点についてコメントします。
先ずは,「2」の「(1) 奥村は時間と空間を恣意的に囲込む。局地化す
る思考の破綻。」の注4について。神山さんご自身の発言。確認です。
>株
>式会社は直接には資本の人格的媒介様式である。
この点は,説明するのが結構,難しいですね。私的所有者一般も資本家も株
式会社も資本の人格的な媒介形態である。ところが,三者の間には質的な区別
がある。資本家を捨象して単純に言うと,個人的な私的所有者は所有する人格
であり,株式会社は所有する物象だということになる。しかし,それならば,
(1)個人的な私的所有者は真の人格なのかということになる。そんなわけはな
いのであって,個人的な私的所有者は物象の人格化であり,ほかならないこの
物象というものを措定する人格があるはずである。だから,個人的な私的所有
者は人格ではあるが,物象の人格化としての人格,物象としての人格である。
逆に,(2)株式会社はやはり法的な人格として人格ではないのかということに
なる。その通りなのであって,株式会社は直接的に自己を人格として妥当させ
ている物象(非人格)であり,自己を正当化させる媒介的な実現形態を無媒介
的(直接的)に措定してしまった物象,人格としての物象(非人格)である。
私的所有者一般が人格であるというのがそもそも矛盾しているのだが,株式会
社は今やこの矛盾を暴露するまで発展させている。──図式化して言うと,こ
んなところでしょうか。
「2」の「(2) 「政治的幻想」の主体化」について。神山さんが引用し
ている奥村さんの発言。コメントです。
>「誰からもチェックされない経営、それはまさ
>に経営者天国であるが、法人資本主義の日本でそれは全面的に開花した」(42
>頁)。
ちょっと茶化して言うと,“誰からもチェックされない経営,それはまさに
経営者地獄である”。経営者天国は経営者地獄に一転するということが日債銀
破綻で暴露されました。ちゃんとチェックしておいてもらえば,取締役も監査
役も株主総会も無責任だ──これはこれで資本の普遍的な実存様式です──と
いうことで,“悪いのはシステムですよ”と言って,なんとか収まったのかも
しれないのに。その場合にはその場合で,今度は刑法の個人主義的原則の破綻
という形態でシステムそのものの矛盾が暴露されてしまうでしょうが……。天
国は実は地獄だったのです。
同項。神山さんご自身の発言。コメントです。
>株式会社形成の史学的な
>説明は、「株主総会」は大株主の隠れ蓑として出来た、株式会社は出資者が支
>配しながら金を集めるためにつくった、とする出資者史観によるものが普通で
>あり、株主総会の形骸化も、資本多数の原則から、株主間の格差から説く。し
>かし、形骸化は、株式が分散していなくても、格差がなくても、さらに法人所
>有がなくても、またヤクザ資本主義でなくても、起りうる。株式会社の形態そ
>のものにおいてありうる。株式分散型でも、機関所有でも起きるということは
>さらに、それらの前提として、資本運動が形骸化を自分の手段にするからであ
>る。
神山さんがおっしゃる「株式会社形成の史学的な説明」というのは,典型的
には,個人企業→合名会社→合資会社→株式会社という歴史的発展に即して,
発生“史”的に──発生的に(つまりシステム内部の発生的関連から)ではな
く──株式会社を説明する理論態度ですね。例えば大塚久雄。発生的と発生史
的,──どちらもドイツ語に直すとgenetischですが,その内容は天と地ほど
違います。
歴史的説明──つまり現在の株式会社の説明ではなく,過去の株式会社の説
明──としては,このような説明は正しい一面を含んでいます。何故に全面で
はなく一面なのかと言うと,歴史ははそれを反証するような偶然的な個別的事
実(あるいは少なくともそれを相対化するような偶然的な個別的事実事実)を
もまた示しているからです。
神山さんが,「起りうる」,「ありうる」と述べているのは,このような個
別的事実についてですね。つまり,個別的事実に即しても,形骸化はいつでも
どこでも「起りうる」,と。これに対して,理論的位置付けに即しては,形骸
化は一定の局面では「起りうる」どころか“起こらなければならない”わけで
す。そもそも個別的事実に即しても「起りうる」のはシステムそのものが必然
的に要請しているからだったわけです。
同項。神山さんが引用している俺のレジュメ。ちょっと補足。
>奥
>村の主観的な意図には関わりなく,客観的には,奥村は,“生産関係の基礎は
>所有関係であるから,もし所有形態が単に変革されさえすれば,バラ色の未来
>が齎される”と主張する最も見苦しいスターリン主義者(あるいは──これは
>左翼的スターリン主義者の右翼的別名であるが──新自由主義者)そのもので
>ある
“新自由主義はスターリン主義だ”と言っているバカは,余りいないのでは
ないかと思います。何故に俺がこんなことを強調しているのかと言うと,新自
由主義批判のためなのです。どうも“所有を変革すればバラ色の未来が現れ
る”という点からスターリン主義を批判する人たち──大西広,山口正之,有
井行夫など──は,しばしば新自由主義に甘いんじゃないかと思われるからな
のです。特に,大西さんがせっかくスターリン主義の核心をつかみながら,あ
んなに新自由主義に甘いのは,進歩主義史観のなせる業だとしか思えません。
俺に言わせると,新自由主義のポイントは“プリバータイゼーションがバラ色
の未来を齎す”ということにあり,これは“ナショナリゼーションがバラ色の
未来を齎す”ということの一卵性双生児です。もちろん,現状では,前者の方
が後者よりも進歩的です(当たり前!)が,非現実的ということではどちらも
同じです。俺は,圧倒的少数派である反動的左翼をいつまでも相手にしていて
も仕方がないのであって,進歩的右翼を徹底的に批判するべきだと考えていま
す。
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さて,これは神山さんに対するコメントではなく,俺もけなし,Y.K.君もけ
なし,神山さんもけなしている奥村さんの名誉回復。
どうも俺のレジュメでは,奥村さんのことをケチョンケチョンにけなしてば
かりですから,ここでちょっと誉めておきましょう。──法人所有という特殊
的な一形態においてではあっても,それでもやはり私的所有の止揚に着目して
いる奥村さんは,凡百のマルクス経済学者の諸君よりもよほど優れていると思
います。素晴らしい現実感覚の持ち主です。“現在では私的所有の鎖がますま
すきつくなっている”なんて与太話をしている妄想家とは,そもそも比較する
のが失礼なくらいです。この点は正当に評価しなければならないでしょう。奥
村さんが私的所有の止揚一般ではなく,私的所有の特殊的な一形態に着目して
しまうのは,私的所有の止揚のさまざまな姿態として現れる一般的な発生根拠
を把握していないからです。そして,これは“現代”資本主義とか“日本”資
本主義とか,そういう消えては現れ,現れては消えるような特殊的形態の問題
ではなく,“現代”資本主義とか“日本”資本主義とかのような特殊的形態で
現れる“資本主義”の問題です。
また,恐らく,奥村さんは,本心では,特殊日本的な資本主義に対する批判
を通じて,資本主義一般に対する批判をしたいのでしょう。それを不可能にし
ているのは,日本株式会社に対する溢れんばかりの義憤だけではありません。
理論的な方法的基礎が彼には欠如しているのです。これこそは,俺がレジュメ
で強調していた点です(同様にまた,神山さんがコメントで力説している点な
のでしょう)。奥村さんは高座派的な,いや講座派的な視点[*1]に立っている
から,特殊日本的な資本主義に対する批判と資本主義一般に対する批判とは媒
介されなければならないと考え,恐らく苦しんでいるのでしょう。本当は,特
殊日本的な資本主義に対する批判は直接的に,無媒介に,資本主義一般に対す
る批判だ(そうでなければ特殊日本資本主義に対する批判としてもリアリティ
がない)と思うんですがね。
[*1]皆さん,よくご存じでしょうが,一応,念の為。詳
しい説明は抜きにしますが,講座派は落語家の集団では
ありません。ここでは,遅れた日本の特殊性(つまり後
進性)という視点から日本資本主義を“特殊なもの”と
して理解しようとする態度を,講座派的な視点と呼んで
います。これは戦前に起こった論争ですが,その視点は
脈々とマルクス経済学の正統派の人たちに受け継がれて
います。
“バカな考えだ”なんて笑ってはいけません。マルク
ス経済学に限らなくても,“日本資本主義は欧米資本主
義とは異質な特殊なものなのだ”という視点から日本資
本主義を理解しようとする人は数多くいますよね。あと
はもう,“特殊だから素晴らしい”と考えるか,“特殊
だから打倒しなければならない”と考えるかは,まぁ,
言ってみれば趣味の問題です。それに,保守と革新とは
絶えず入れ替わります。“日本を近代化しろ”と主張し
ていた人が,いつの間にか真の愛国者として“日本を守
れ”と主張するようになります。あるいはまた,“マト
モな資本主義のモデルはどこか”という“見方”の違い
で,同じく“マトモな資本主義”の視点から日本資本主
義を批判する人たちが,一方では“マトモな資本主義の
グローバルスタンダードを取り入れて,じゃんじゃん自
由競争しましょう”というグループに,他方では“マト
モな資本主義の市民的原則を取り入れて,労働者を保護
しましょうという”というグループに分裂したりしま
す。
あぁ,またけなしてしまった。でも,とにかく奥村さんは資本の自己否定を
見ているという点で明らかに優れています。この点だけは確認しておきたい。