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神山さん,ISM研究会の皆さん,今井です。
神山さんのコメントにかこつけて,ちょっと俺自身の発言の補足です。俺は
“[ism-study.4] Re: On "Kabunusi Soukai"(OKUMURA Hirosi)”
(1999/07/22,06:42)の中で次のように欠きました。
>(1)個人的な私的所有者は真の人格なのかということになる。そんなわけはな
>いのであって,個人的な私的所有者は物象の人格化であり,ほかならないこの
>物象というものを措定する人格があるはずである。だから,個人的な私的所有
>者は人格ではあるが,物象の人格化としての人格,物象としての人格である。
俺が問題にしたいのは,私的所有者が人格であるという時の,“人格”の位
置付けなのですね。これは人格がペルソナ(仮面)であるのか,実践的な社会
形成主体であるのかということにも関わってくる。労働の場面では,労働する
人格と労働(力商品)の人格化との対立という形態で鋭く問題になってくるの
ですが,単純商品流通を見ている限りでは出口がないわけです。
さて,神山さんは“ism-study.5] Re: On "Kabunusi Soukai"(OKUMURA
Hirosi)”(1999/07/22,16:31)の中で次のように述べています。
>かなり一般的。人格とは、自由な自己意識ということ。
このような「一般的」な規定をした後で,神山さんは“特殊的”に「商品生産
の自由人」について次のように続けています。
>法的規定としての自由、人格は、ここに
>なりたつ。
問題は,この法的人格[*1]と,最初に出てきた人格──神山さんの定義では
「自由な自己意識」──との関連なのです。“人格とはそもそも法的人格とし
て通用するペルソナ(仮面)なのだ”と考えると,廣松さんのように“類的本
質なんてのは虚構の主体なのだ”ということになってしまいます。ですが,法
的人格として通用するペルソナ(仮面)は物象の人格化でしょう。それではほ
かならない物象とはなんのことなのかと言うと,人格の物象化だということに
なる。それじゃぁ,一体,物象化するべき人格はどこから出てきたの? ──
これが俺の問題意識だったのです。
[*1]皆さんはよくご存じでしょうが念の為。法的人格と
いうと,つまり法人のことだから,会社(非自然人)の
ことなのかと思わないでください。そもそも法的人格は
自然人でなければならいわけです。法的な権利(優れて
私的所有権)を付与され法的な行為(優れて商品交換)
を行う能力がある自然人こそが法的人格,つまり法人な
のです。自然人に基礎をおいているからこそ個人を法的
人格として認めることができるわけです。
自然人ではない──人間ではない──得体の知れない
ものを,法的人格として認めるためには,そういう得体
の知れないものが事実そのものにおいて権利主体として
行為していなければなりません。もし資本が個人的な資
本家の持ち物として現れ続けるならば,総ては資本家の
行為に解消します。その資本家が何人いようとも,各資
本家にそれを分解すればいいだけの話です。ところが,
資本の運動の方は資本家の運動から自立化してしまいま
す。既に事実そのものにおいて,資本が権利主体として
行為してしまっているのです。それが当事者意識に対し
て暴露された時に,そしてそのようなものとして当事者
が振る舞っている時に,既に資本は法的人格になってい
ると言えます。
困ったことに,現在の民法の解釈は法人擬制説と法人
実在説とのゴチャ混ぜになっています。(まぁ,別に困
るようなことではなく,資本がそのような分裂した姿態
を展開するのであり,このような分裂した姿態のどちら
についてもそれを徹底することは事柄の性質上,できな
いからなのですが)。こういうわけで,民法の教科書を
開くと,“自然人ではないような得体の知れないものに
法的人格を付与するのは,法律的テクニック(現在の日
本では具体的には登記)である”なんて,平気で書かれ
ているわけです。ですが,上に述べたように,法制度的
な整備に先行して,資本は,当事者に対してそのような
ものとして現れ,且つ当事者がそのようなものに対する
仕方で振る舞っている時には,既に法的人格になってい
ると,俺は考えます。
法制度的な整備によって初めて当事者意識に対して資
本の自立的な物象的運動が暴露されるわけではないので
す。しかし,法制度的な整備は暴露を受け取った当事者
意識を,公認の意識として固定化するわけです。その意
味では,法制度的な整備の場面は,優れて当事者意識に
対する資本の自立的運動の場面になるわけです。
さて,このような法人は正に自然人という基礎を欠い
ているからこそ,自然人から区別されるべき法人,自然
人ではない法人という意味で優れて“法人”であるわけ
です。“法人ではあり得ないもの”こそが“法人でしか
あり得ない”という点で優れて“法人”であるわけで
す。こうして,現在では,法人と言ったら専ら“自然人
ではない法人”のことを意味するようになっているわけ
です。
>会社も人。
これが会社形態のミソ(会社実体のミソではないが)ですね。個人企業の場
合には,なんとか流通過程では,企業は人の持ち物だという言い訳が通じたの
だが,ひとたび法人成りすると,企業(つまり資本)の自立化が露になる(い
や,それ以前から自立化していたんだけれども,当事者意識に現れるまでに自
立化してしまう)。──“俺は会社に雇われているんだ”(従業員を雇ってい
るのは資本家ではない。代表取締役でも株主総会でも株主集団でもない)。と
は言っても,会社が人ではないのは誰の目にも明らかであるから,自分自身の
正当化のためには自然人──株主としての個人的な私的所有者──を要請す
る。法人所有・機関所有においては,この要請からさえも,資本は自立化して
しまう。──こんなところでしょうか。