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窪西君,ISM研究会の皆さん,今井です。
>この本欲しいのですが、定価7000円もするので買えません
取り敢えず,元 弟子なんだから,タダでもらいましょう。弟子でもない俺
はタダでいただいたから,窪西君がタダで貰えないわけはない。頭を下げてお
願いしましょう。
>価値尺度機能マヒ論の章が新たに加わってまして、不換制下で諸商品に等置
>される金は兌換停止時の金であるという主張がされているようです。
恐らく雪彦さんはこの点を批判するのでしょうね。以前に理論学会の関東部
会で雪彦さんが報告した時に健さんがコメンテータとして雪彦説を批判してい
まして,こういう趣旨のものでした。
>とはいえ、現在の金商品市場の金およびその価格は、諸商品の価格において表
>象されているところのモノとはまったく何の関係もないと思います。
正に金市場において貨幣で購買されるべき商品ですからね。但し,窪西君も
ご承知のように,金が貨幣として流通していなかったということ自体は兌換制
下でも同じだったわけです。
兌換制と不換制(正確には管理通貨制)との間で画期的な区別があるのは言
うまでもありませんが,どうも兌換制下では金が貨幣として流通していたなん
て,とてつもない幻想を抱いている人がいるもので,そしてまたそれを金廃貨
論の論拠にしている人がいるもので,敢えて当たり前のことを強調する次第で
す。銀行・信用制度が十分に発達していれば,そしてまた恐慌期を別とすれば
(国内的には退蔵,国際的には連続発射),金が貨幣であるなんてのは兌換の
制度によって制度的に保証されているだけです。金が流通していたなんて思い
込んでいる人たちはシャイロック的なイメージで資本主義的生産を表象してい
るのだと思うのです。
>久留間さんにとってマルクス解釈論はどうでもいいことなので
>しょう。
どうでもいいことなのでしょうが,それにも拘わらず,やっぱり,エンゲル
スの文(健さんが論文を書いた頃はマルクスの文だと思われていた)によって
思考方法が制約されちゃっていますね。
>現行版資本論のいわゆる信用制度論で言及されていようといまいと、
>「流通手段の前貸」と資本前貸との区別と関連という論点はひじょうに重要だと
>思います。
上手く整理することができないのですが,これはやっぱり内生的貨幣供給論
と外生的貨幣供給論との問題が絡んでくると思うのです。松本久雄さんなんか
が強調している貸付可能なマニドキャピタルと貸付けられたマニドキャピタル
との区別なんかも入り込んで,俺自身,上手く解けていないところなのです。
マルクス派ポストケインジアン──あるいはポストケインズ派マルクシアン
──の連中の内生的貨幣供給論には,実はうんざりしているのです。外生的貨
幣供給論もヘリコプターマネーまで行き着くと,その馬鹿馬鹿しさ故に,却っ
て肯定的です(笑)。だって実際,貨幣は商品流通の中にありながら外に立っ
ているわけですから。どうも貨幣の内生性に言及する人たちには,この内生的
社会性が自己疎外的な社会性,商品にとって外面的な社会性だということが看
過されがちなのでは? 単純商品流通の枠内の話をしても,マルクス風に言う
と“貨幣が商品である”(≒商品流通の内にある)というだけでは駄目なの
で,“商品が(自己疎外的に,自己疎外ゆえに,自己疎外によって)貨幣であ
る”(≒商品流通の外に聳え立つ)というところまで行き着いて初めて貨幣の
分析は完了するわけでしょう。
貨幣が資本に転化しても銀行・信用制度下でも管理通貨体制下でも,この点
だけは変わっていません。いや,変わっていないというか,却ってこの外面性
が明らかになっていると思うのです。せっかく管理通貨体制において“中央銀
行は可能性から見ていくらでも貨幣を供給することができる(但しインフレに
なっちゃうからやってはいけない)”という外生的貨幣供給論の表象──その
裏返しは“個別的銀行は可能性から見ていくらでも信用を創造することができ
る”という内生的貨幣供給論(?)の表象──が生まれてきたわけですから,
貨幣供給の内生性と外生性との両者を批判しなければ行けないと思うのです。
と言うわけで,俺は,安易に内生的貨幣供給論に媚びることなく,内生的貨
幣供給論と外生的貨幣供給論とを両面批判したいと考えているのです。で,ど
うも,その問題を考えていくと,どうしても流通手段前貸と資本前貸との問題
にケリをつけておきたいのです。
で,エンゲルスについて言うと,どうも流通手段前貸と資本前貸との区別を
どうやってつけたらいいのかという──それ自体は正当な──問題意識に制約
されて,窪西君が述べている「関連」と言いますか,同一性と言いますか,そ
っちの方がオミットされちゃっていると思うのです。
全然まとまっていませんが,こんなところで。