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今井さん、皆さん、こんにちは。
まずおわびですが、[ism-study.35]として投稿したものが、ふだん使っ
ていないパソコンで、メーラも別のものを使ったら、ミスで、日付が狂っ
ておりました。お手数ですが、探してご一読お願いいたします。
さて、対象総体を対象として労働する個人からの発生的連関を選択する
という理論観、労働する個人の主体概念としての人格概念、実在する矛盾
としての自己疎外、自己疎外における即自的な人格的自由の形成、疎外と
しての当為、交換過程論の人格規定、など、今井さんとはほとんど同じ問
題設定で、しかしなお、ずれをお互い確認する形で、議論をつづけてまい
りました。もしかしたら、読んで下さったかたがたは、プロレスや八百長
試合をイメージされたかもしれませんね(笑)。
> おっしゃる通り,俺は類的本質=人格として把握し,類的本質=労働する人
> 格として把握するから,俺の議論では「人格が先にある」ということになるわ
> けです。そして,一言だけ補足すると──これは神山さんにも同意していただ
> けるはずですが──,「それも、労働においては、疎外されそれは否定されて
> い」るとは言っても,正にこの否定された形態,正にこの疎外された形態にお
> いて産出されているわけです。それどころか,徹底的に自己否定し得るという
> こと,徹底的に自己疎外し得るということこそが,類的本質のリアリティ(類
> 的本質の類的たる所以)であるわけです。
もちろん同意です。
> 但し,これは結局のところ,資本の生産過程の理解を前提するのです。自己
> 疎外した労働の振る舞い(第5章第2節以降)──いやそれ以前に自己疎外し得
> る労働の振る舞い(第5章第1節)──を前提しないことには,いくら俺が“物
> 象化するべき人格的生産関係とは類的本質の関係のことだ”と言ったところで
> 単なる断言であるのに過ぎません。で,これを前提した上で単純な商品流通を
> 捉え返してみよう──こういうわけなのです。
>
ここが、かなり議論を難しくした要因の1つだとおもいます。
> >「結局、相互承認する1つの『交換過程というオープンな領域』なのだ
> >から、相互承認に先行する人間の振舞いを取出す意味はないのでは」とは
> >かんがえないわけですね。
>
> 考えません。俺の場合には,相互的承認の根拠とプロセスとが問題だからで
> す。
>
この「問題意識の問題意識」を今井さんは、価値形態論とのかかわりで
論じて下さっています。ちょっと私の手に余るので、興味深かったという
感想でここはご容赦ください。どなたか、今井さんに質問してくだされば
、たすかります。
交換過程に入った瞬間の事実上の自由な当事者・主体を、相互承認的・
法的人格の根拠としての人格としてとらえる、今井さんの立論は、私もも
う少し考えてみて、吸収したいと思います(といっても実質的にはおたが
いほとんど変らない議論のようですね)。