本文
神山さん,ISM研究会の皆さん,今井です。神山さん,整理していただきど
うもありがとうございます。
最初にお詫びから。
>単に、読まれている皆さんにとって、ちょっと論点がおおすぎやしない
>かとおもっただけです。
誠におっしゃる通りです。俺が次から次へと論点を出してしまいました。ま
ぁ,神山さん風に言うと,俺の中では全部ワンセットで繋がっているからなの
ですが。でも,恐らくこのメーリングリストをご覧になっている皆さんにとっ
ては,論点が多すぎると思います。これはちょっと反省しています。
>「自由な自己意識」=人格、という表現がややこしくなった原因かもし
>れませんね。自由な自己意識性が労働そのものの内的在り方なら、人格が
>先にある、ことになりますね。(ただそうとっても、それも、労働におい
>ては、疎外されそれは否定されていますが)。
おっしゃる通り,俺は類的本質=人格として把握し,類的本質=労働する人
格として把握するから,俺の議論では「人格が先にある」ということになるわ
けです。そして,一言だけ補足すると──これは神山さんにも同意していただ
けるはずですが──,「それも、労働においては、疎外されそれは否定されて
い」るとは言っても,正にこの否定された形態,正にこの疎外された形態にお
いて産出されているわけです。それどころか,徹底的に自己否定し得るという
こと,徹底的に自己疎外し得るということこそが,類的本質のリアリティ(類
的本質の類的たる所以)であるわけです。
但し,これは結局のところ,資本の生産過程の理解を前提するのです。自己
疎外した労働の振る舞い(第5章第2節以降)──いやそれ以前に自己疎外し得
る労働の振る舞い(第5章第1節)──を前提しないことには,いくら俺が“物
象化するべき人格的生産関係とは類的本質の関係のことだ”と言ったところで
単なる断言であるのに過ぎません。で,これを前提した上で単純な商品流通を
捉え返してみよう──こういうわけなのです。
>「結局、相互承認する1つの『交換過程というオープンな領域』なのだ
>から、相互承認に先行する人間の振舞いを取出す意味はないのでは」とは
>かんがえないわけですね。
考えません。俺の場合には,相互的承認の根拠とプロセスとが問題だからで
す。
>「結局、対面して相手に反射して、人格である
>ことをみとめあうのだから、ここで人格の後先は重要ではない」とは考え
>ないことになるのですね。
考えないことになります。理由は同上。
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俺の場合には,商品所持者は物象の人格化として人格だからこそ,相互的承
認をすることができ,またこの相互的承認によって自己が人格であるというこ
とを実証するのに対して,神山さんの場合には,商品所持者は相互的に承認し
たからこそ,物象の人格化になるわけですよね。
これをやると議論が混乱するだけだから,これまで申し上げていませんでし
たが,一応,どうして「相互的承認の根拠とプロセス」を問題にするのか,と
いう問題意識[*1]を明らかにしておきます。相当,話がぶっ飛びますので,お
許しください。以下の部分は神山さんの投稿に対するコメントではありませ
ん。恐らく,皆さんに,直ちに理解していただくというわけにはいかないでし
ょう。実際にまた,総てを詳しく説明していると大変なことになりますので,
あくまでもエッセンスだけをお話ししますから,ますますもって解りにくいと
思います。皆さん,どうか軽く読み飛ばしてください(もちろん,質問とかが
あればお答えいたします)。
[*1]ちょっとややこしいのですが,そもそも“どうして
「相互的承認の根拠とプロセス」を明らかにするという
ことが,交換過程にeingehenした瞬間に成立している商
品の人格化と,相互的承認によるその実証とを区別する
のか”という問題意識だったわけです。ですから,どう
して「相互的承認の根拠とプロセス」を問題にするのか
という問題意識は,“問題意識の問題意識”です。まぁ
,対象はハッキリしているから,“問題意識の問題意
識”まで明らかにする必要もないのかもしれませんし,
また,もちろん,このような問題意識を全く共有してい
なくても十分に議論が可能であるはずです。
『資本論』の交換過程論では,相互的承認については実に簡潔な説明になっ
ています。で,正直に言って,俺はどうもこの相互的承認ってヤツがよく解ら
ないのです。特に,価値形態の回り道との関連がさっぱり解りません。
価値形態論では,リンネルが上着を自己に等置するわけですが,この等置に
よって初めて価値が発生するわけではなく,上着もリンネルも価値だからこそ
上着を等置し得るわけです。但し,上着は価値の本質として等置されるわけで
はなく,価値物──価値の実存形態──として等置されるわけです。この等置
において,リンネルは上着を価値の現象形態にし,これを通じて自分もまた価
値であるということを表現するわけです。対他関係を通じて,自己関係に至る
わけです。
さて,商品という物象的な主体に即してのこのような振る舞いは,言うまで
もありませんが,人格の物象的な振る舞い,物象化された振る舞い,物象とし
ての振る舞い,商品としての振る舞いにほかなりません。物(Ding)としての
商品がそのような振る舞いをするわけではないのです。「相対的価値形態の内
実」でのぺーター・パウルの話はなんら文学的な譬え話ではないと考えていま
す(但し,ぺーター・パウルの話は交換過程における話ではありません。あく
までも人間の同等性関連の話です)。
そこで,交換過程論での相互的承認においても,各商品所持者は交換相手を
自由・平等な私的所有者として認めるということを通じて自己をそのようなも
のとして妥当させようとしていると考えているわけです。それが相互的に行わ
れているのが相互的承認であると考える次第です。但し,もちろん,交換過程
での振る舞いは(1)自覚的・人格的である(物象の振る舞いではなく人格の振
る舞いである)という点,そして(2)相互的であるという点で,価値形態論に
おける商品の振る舞いからは完全に区別されます。形式的には,この点で,諸
人格の相互的承認は商品の一方的宣言からは区別されると考えるわけです。
そう考えてみますと,相互的承認においても,相手を人格としていわば“等
置”するためには,相手が既に人格でなければならないであろう(相手が既に
人格であるということはもちろん相互的承認においては互いが既に人格である
ということを意味します)。で,当然に,この場合の人格は,物象化するべき
人格(価値の本質)なんてものではなく,その現実化=現実性剥奪であるとこ
ろの,物象の人格化としての人格(価値の実存形態)でなければならないであ
ろう。だって,それしか,単純商品流通に既存の人格はあり得ないのですか
ら。こうして,相互的承認によって,商品の人格化としての商品所持者たちは
自己が人格であるということを実証するのであろう──こう考えたわけです。
問題意識を見れば,まぁ,価値形態論とのアナロジーから出発しているわけ
です。ですが,上に述べたように,商品の関係行為の態様と人格の関係行為の
態様とがうまく区別できていない以上,一方的・物象的であるのか相互的・人
格的であるのかという明白な区別を前提にした上で,アナロジーから出発して
みようというわけです。
こういうわけで,“そもそも人間一般が,そのままの資格で,流通過程で相
互的承認なんかできるのかいな,物象化の人格として既に人格であるからこ
そ,相互的承認することができるんじゃないかな”と考えているわけです。
殆ど珍説に近いと思いますが,価値形態論における商品の自己疎外的な関係
行為と,交換過程論における人格の自己疎外的な関係行為との関連が俺自身の
中でうまく決着されれば,きっとこういう珍説は俺の混乱した頭脳の中から消
えてなくなるのでしょう。