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 今日は、神山です。

 皆さん、暑いですが、よろしく。
 人格とか物象とか、ちょっと、スコラ的で、現代と関係ないようなこと
にこだわっているように見えるかもしれませんね。ただ、これも、株式会
社現象としての資本のシステムの限界、というわれわれの論議の軸芯にと
っては、さけられないし、マルクス主義だけでなく、現代社会科学の全領
域の問題、現代知の限界に関わる問題なのです。
 しかも、単純な形態ゆえ、難しいところなんです。
 人格論は、マルクスの中心ですが、スターリン主義と反スターリン主義
のアマルガムのあの学会では問題にされていないので、ここでみなさん大
いに研究しましょう。

 今井さんが、今回は、私が微妙ないいまわしにしたところ全部を取り上
げてくださっています。今井さん有難うございます。ちょうど、人格につ
いてまた投稿しようと思っていたところですのでたすかります。

>  えーと,恐らく,殆ど同じことを主張していると思うのです。ただ,俺と神
> 山さんとでは用語法(及び問題意識)が若干違うので,議論が今一つかみ合っ
> ていないのだと思います。

 私も、問題意識、主張とその根拠、殆ど同じだと思いますね。
 ただ、問題意識のずれている個所が、話を入り組ませてしまっているん
だと思います。

> >法的な人格は、自由な実践的な社会形成主体です。
> 
>  おっしゃる通りです。ちょっと俺の言い方が曖昧でした。神山さんの用語法
> に即すと,「自由な自己意識」(俺の用語法では“労働する人格”,あるいは
> “類的本質”)と言うべきでしょう。これは商品の人格化とは異なって,交換
> 過程で形成されるものではありませんよね? いかがでしょうか?

 自由な実践主体一般は、「類的本質」のことです。自由な自己意識は類
的本質です。人格としての振舞い一般は、労働する自由な人間の振舞です
。そう考えていいとおもわれます。
 ただ、法的、という姿は、交換過程から発生すると考えています。法的
人格は、自由な自己意識ですが、孤立した、限界のある、抽象的な自己意
識として発生します。しかし、前近代・共同体には、この形態すらなく、
商品生産でも、生産の内部は、隠された世界だし、賃労働を想定しても、
それは、人格としてではなく消費材料にすぎません。逆に、出発点は、抽
象的なければ、ありえないでしょう。もちろん、それは、国家からの自由
とか、選択の自由とか、低い次元の自由で、生産に関知しない隠蔽工作と
して機能します。ただ、法的、というのは、生まれながらにして、とか、
おきてとして、とか、という自然生的な紐帯でなく、抽象的だが、自由で
、自覚的な社会形成行為にかかわります。賃労働者階級も、この形態を持
たなかったら困るんです。もたなかったら始まりません(あたりまえです
が)。自由な労働する人間の、姿として、もたなかったら、その抽象性す
ら乗り越えられません。物象の批判も、対抗軸を失うでしょう。物象であ
る労働者を即座に人間として解放せよ、という観点から近代の自覚性を捨
てる、のではなく、労働者の、ラディカルでオープンな民主主義こそが、
民主主義の欺瞞性、抽象性、ブルジョア性の批判でしょう。別に流通的幻
想ではないことは分っていただけると思います。民法も知らないで(私も
対して知りませんが)解放を、ではない、ということでしょうか。常識批
判は常識そのものを捨てることではありませんよね。
 自由な自己意識という言葉は、近代の哲学する自己意識(抽象的に自由
だが、対象から完全に疎外されている)も、近代の社会形成する自己意識
(政治解放された自由な自己意識)も、対象を産出する労働する自己意識
に環帰する。人間解放は、政治解放を前提し、その抽象性の乗り越えであ
る。
 こんな問題意識から、自由な自己意識という言葉を労働する個人に通
底する言葉として使ってみましたが、わかりにくかったでしょうか。類的
本質も、こういう対象の再獲得をしめす、だいたい同じ概念でしょう。

>  従って,俺が“[ism-study.6] On the "Person" etc.”(1999/07/23 
> 07:56)で提起した問題,すなわち,──
> 
> >これは人格がペルソナ(仮面)であるのか,実践的な社会
> >形成主体であるのかということにも関わってくる。
> 
> という問題は,神山さんに即しては「人格が物象の人格化であるのか,それと
> も『自由な自己意識』であるのか」という風に言い換えた方がいいのでしょ
> う。(神山さんの場合にも,物象の人格化としての人格と「自由な自己意識」
> とは区別されるのですよね?)。

ええ、区別しているつもりです。

>  さて,神山さんは“[ism-study.9] Re: On the "Person" etc.”
> (1999/07/26 20:41)の中で法的人格について次のように述べています。──
> 
> >物象が法的な人格を自己の人格化とする
> >わけです(商品の人格化)。〔命題1〕
> 
> この点が俺にはちょっと解りにくいところなので,ご教示いただければ幸いで
> す。この文を読む限りでは,神山さんの場合には,商品の人格化に先行して法
> 的な人格が形成されているということになります。だって,「物象が」なにが
> しかを「自己の人格化とする」ためには,なにがしかがその時点以前に形成さ
> れていなければならないでしょう。上着を自己の形態にする(等価形態にす
> る)ためには,既に上着が既存のもの(観念的なものなのですが)として実存
> していなければなりません。

 命題1は、株式会社を考えると、全部既存の法的人格が、資本の役割、
仮面に嵌りこめばいい、ことをも含んでイメージしました。
 もちろん、一対一の原始的交換の場面で、法的人格の形成が、裏から見
て、同時に、交換物の人格化です。
 ただし、交換の発展は、法的人格を交換から分離してしまいます。そう
でなければ、商品論から資本論に移って、「対立」にまでいきません。こ
れをイメージしてみたのです。それから、問題意識としては、法的人格が
、物象が運動する際の、無抵抗なコードなのではなくて、物象に対して、
freiで、偶有的な、抽象性における実在する自由な人格だということ。

>  俺の場合には,既存の人格が法的人格として妥当するのです。そして,その
> 場合の既存の人格というのが既に商品の人格化としての人格なのです。つま
> り,相互的承認による私的所有者の発生に先行して,商品の保護者あるいは商
> 品所持者(Warenhüter od. Warenbesitzer)が既に商品の人格化なので
> す。商談に先行して,生産過程からでてきた瞬間に,商品所持者が商品の人格
> 化としての人格になっているのです。商品所持者は,相互的に承認し合うから
> こそ人格になるのではなく,人格であるからこそ相互的に承認し得るわけで
> す。
>  この商品の人格化は既に事実的・経済的にペルソナとして自由に振る舞って
> います。ここでは,相互的承認は要件ではありません。物象化を経た上では,
> 人格は即自的にペルソナであり,社会的諸関係のアンサンブルなのです。その
> ような商品の人格化は交換そのものに先行して商談において私的所有者として
> 相互的に承認し合います。ここで,私的所有者が発生しています。相互的承認
> は既存の人格を私的所有者として形態規定するわけです。
>  命題1に従って商品の人格化に先行して法的な人格が形成されているとして
> も,それがどこで形成されたのか,次のような解釈が可能です。──法的人格
> は交換過程で形成されたが,まだ現実的には相互的承認をしてない段階で──
> つまり交換過程での一方的な振る舞いにおいて──形成された。要するに商品
> の保護者あるいは商品所持者が既に法的人格である。これに対して,「商品の
> 人格化」は相互的承認時に発生する。

 ここは私には難しいですね。
 今井さんは、生産過程から出てきた商品所持者、商品の「番人」が、商
品の人格化で、法的契機を含まずに、相互承認を含まずに、人格で、それ
が先にあって…、というふうに把握されていらっしゃる、と理解してよい
でしょうか。法に先行する経済的人格化のような関係をお考えですか。そ
の場合、「人格」とは何ゆえ、「人格」であるということになるのでしょ
うか。
 うーん、私は、“生産においては、孤立的でかつ社会的であるが
ゆえに、生産が社会的に媒介されていないから、人格的な関係ではなく、
物象的に媒介される。物象が主体化する。しかし、物象は人格化しなけれ
ば媒介されないが、私的生産者が交換者として人格として振舞いことを介
してこれを実現する。彼の行動は物象の行動に転換され、物象の行動は彼
の行動である。生産の中にあらかじめ人格があるわけではない”と単純に
考えてましたが。ややこしいのは、私的生産者そのものが実在するわけで
はなくて、直接に交換者として自己規定することです。
 今井さんもうんざりするほど読まれた交換過程論の冒頭は言います。
 これから市場に行く商品番人・所持者(besitzer)は、物(Ding)を支配す
る人間(Mensch)である、これらの「物を商品として互いに関連させるため
には」、物を自己の意思のもとに置く「人格(Person)として互いに相対
しなければならない」と。で、「意思行為」「私的所有者としての相互承
認」「法的関係」が、商品の媒介としてでてきます。
 私は、私的生産が、この局面を措定するので、これらの物象、人格、意
思、法、私的所有、はワンセットで考えてましたので、今井さんのように
、細かい関係や、後と先という関連は、考えたことがなく、よく分らない
ので、ご教示いただければ幸いです。私的生産が、この局面を措定する(
ちなみに「物象の人格化と人格の物象化という対立」この点から理解でき
そうですがよく分りません)。局面だけ見ると、循環的だし、交換自体が
自立的な能動性があるのでなく、私的生産という生産の姿の、姿として、
この局面は措定されている。しかし、私的生産とは想定されているもので
、私的交換として実現されている。人格にこだわると、これがややこしい
ですね。私的生産者も、交換を予定して行動し、交換が私的生産の姿なの
で、直接には、私的所有者として人格交流すると考えて、区別はあまり考
えたことがないんです。「自己と対象物との相互承認」ですが、私的生産
者は、これすら否定されています。自己と対象は魂の関連がありません。
彼は交換者として実現され、交換で交換物の自己疎外が実現します(「私
的所有者」「自己の排他的占有によって自己の人格性を確証する排他的占
有者」としての「私的所有そのものの外化」(ミル評註))。

>>法的な人格が単なる仮面であるということは、法的な人格の概念に反す
>>るので、これは物象的な関係です。自分でないものに操られている人格は
>>人格だが、人格ではありません。
>
>  ちょっとペルソナという語の使い方について,俺は説明不足でした。俺の場
> 合には,法的な人格とペルソナとは,物象化を前提する人格という点でも,自
> 由なものとして振る舞っているという点でも同じです[*1]。社会的諸関係のア
> ンサンブルと言い換えても構いません。

単なる仮面、操り人形ではないんですね。

>但し,神山さんがここで主張したいこ
> とが,もし“法的人格は法的人格に──従って自己自身に──矛盾する”とい
> うことであれば,俺の考えと全く同じです。

そういう意味です。

> [*1]俺がペルソナと言うときに念頭に置いているのは,
> マルクスが用いているCharaktermaskという名詞です。

経済的扮装は、重要ですね。私は、物象の媒介の必然的な位置価におかれ
たものというふうにおもってます。

> 。俺の考えでは,そもそも法的な人格
> というのは神山さんがおっしゃるところの「物象的な関係」なのです。

私は、これはさっきの引用の「矛盾」においてとらえてますが、まずは、
法的人格は法的人格というように捕らえてます。もちろん、今井さんが、
法的人格を低い位置づけに貶める、という議論ではなく、リアルな批判認
識において把握することは、私と同じです。法的人格の欺瞞性と、普遍化
の進歩性。

今日はここまでとします。

私の発言は、今井さんと似通ってますので、どなたか、素朴な疑問でも何
なりと、発言してくれたら、うれしいです。