日時 | 1999年11月28日(第65回例会) |
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場所 | 立教大学 |
テーマ | 『セーフティネットの政治経済学』(金子勝著),第4〜6章,エピローグ |
今回は『セーフティネットの政治経済学』の中で,政策提言的な部分──第4〜6章,エピローグ──について,検討を加えた。
先ず,第4,5章については,次の問題点が報告者から提出された。
金子は市場化の傾向を政策の影響としてしか把握しようとしない。──すなわち,それを資本主義的生産の傾向として把握しようとはしない。その結果として,金子は市場化の傾向の意義・限界を把握し得ないのである。ところが,われわれにとっての問題はそのような(市場化推進)政策が出てくる現実的根拠の方であろう。
第3章までのセーフティネットを理論的に解明ようとした部分と第4章からの部分とは無関係である。第4章からの部分では,米帝悪玉論と陰謀史観とに基づいて,グローバル化をいかにして拒絶して,米帝の陰謀から日本的経営を守るのかということに終始する。金子は狂った愛国心と彼の一国セーフティネット構想との区別,また大東亜共栄圏と彼のアジア通貨ブロック構想との区別を強調するが,読者にはどこが違うのかさっぱり不明である。寧ろ,これは,金子自身,狂った愛国心と大東亜共栄圏構想とに乗っかっているということを自覚している証拠であると,読者は見做すべきであろう。
実際にまた,金子は偏狭なナショナリズムと矛盾を共有している。彼自身はセーフティネットは特殊的であり,かつ一般的であると述べている。しかし,もしセーフティネットがナショナルなレベル(日本レベル)でしか構築されないのであれば,アジアリージョナルなレベルでの通貨ブロックを拒絶するべきであろう。これに対して,もしそれがリージョナルなレベルで構築されるのであれば,グローバルなレベルでのセーフティネットを主張するべきであろう。要するに,何故にナショナル,リージョナルなレベルでのセーフティネットを主張していながら,グローバルなレベルでのセーフティネットを拒絶するのか,全く不可解である。
グローバル化が資本主義的生産の必然的な帰結である以上,セーフティネットワーク論に即しては,問題は寧ろグローバルな市場に対抗するグローバルなセーフティネットの構築であろう。ところが,金子の偏狭なナショナリズムはそれを頑なに拒絶するのである。
次に,第6章,エピローグについては,次の問題点が報告者から提出された。
金子にとっては,セーフティネットの再構築は市場機能化の手段であるのに過ぎない。その点では,金子の議論は規制緩和論者のそれと同じである。違うのは将来不安の解消によってこそ,市場が機能化するという点だけである。ところが,将来不安の解消が市場機能化を齎す保証はどこにもない。
その他に,今回の範囲の全体を通じて,細かな問題点が出席者から提出された。──貨幣の市場化の限界が金子のセーフティネット論の柱の一つであるのにも拘わらず,貨幣論・信用論を金子は全く理解していない。米帝悪玉論のせいで,ISOの正当な評価にもBIS基準の正当な評価にも彼は失敗している。401k(確定拠出型年金)ではなく成長率スライド型の租税方式老後保障を導入する場合にも,世代間の対立は消えないし,また,たとえリスクが平等にシェアされるとしても,給付の不確定が残る以上,長期的な期待は成立しない。財政中立性と小さな政府とを結び付けるということ,政府に中央政府しか含めないということ,政府規模の問題から国際・公債・地方債の発行の問題を排除しているということには欺瞞があり,実際には,明らかに彼の政策は大きな政府を志向している,等々。