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 浅川さん,ISM研究会の皆さん,今井です。浅川さん,ご自身の見解に対す
るコメントに移ります。浅川さんご自身の見解は,いきなり図式形式でまとめ
られていて,文章による説明が少ないので,俺の未熟な理解力ではちょっと把
握しづらい面もあります。誤解などがあれば,厳しく批判し,訂正していただ
ければ幸いです。

1. 人格論ツリーにおける浅川説の位置付け

 先ず問題になるのは,このツリーと浅川さんのご見解との関連です。
 第一に,浅川さんの説は,株主総会ツリーのこれまでの議論との関連では,
──

・類的本質は承認されていようといまいと人格である(この点では今井説と同
  じであって,神山説とは違う。但し,類的本質を単なる質料として位置付け
  る点で,今井とは違う。後述)。
・従って,商品所持者は承認されていようといまいと人格である(この点では
  今井説と同じであって,神山説とは違う。但し,商品所持者を単なる質料と
  して位置付ける点で,今井とは違う。後述)。
・法的人格・私的所有者の措定(=相互的承認)は物象の人格化(=主体化)
  という運動ではない(この点では今井説とも神山説とも違う)。
・ただ商品所持者の措定だけが物象の人格化という運動である(この点では今
  井説とも神山説とも違う)。

──こういうことなのでしょうか?
 第二に,俺に対する質問との関連では,──今井説の混乱の原因は,物象の
人格化(=主体化)という運動(主語は物象)と,人間(=単なる質料)の相
互的承認という運動(主語は人間)とを混同するという点にある。──こうい
うことなのでしょうか?

2. 質料因の位置付け

 次に問題になるのは,浅川さんが用いている「単なる質料」あるいは「単な
る質料的媒介物」の意味付けについてです。先ず,第一の引用を行います。

>Menshは、単なる質料的媒介物=所持者

 この図式は,要するに,商品所持者というのは「単なる」質料的な媒介物だ
ということを意味していると思うのです。そうだとすると,もし「単なる質料
的媒介物」を文字通り「単なる質料的媒介物」──主体として振る舞っている
商品に対して,この主体の運動の媒介項として位置付けられた質料(自然素
材)──として解釈するならば,ここが俺の考えと違うところだと思います。
俺の考えでは,商品所持者は,意志と意識とを与えられた商品であって,商品
を市場に物理的に運ぶだけではなく,意志と意識とを以て商品の運動を媒介す
るわけです。「単なる質料」として対象的に振る舞うのではなく,自己として
振る舞うからこそ,商品の運動を媒介するわけです。この自己にとっては商品
こそが自己の対象であり,しかしまた同時に,自己が商品を自己の対象として
扱うということがそっくりそのまま商品によって自己が商品の対象として,商
品運動の単なる媒介項として,要するに非自己として,扱われるということで
もあるわけです。
 商品所持者の位置付けについて神山説を俺が批判した理由の一つは,神山説
では一体にどのような主体がどのような資格で相互的に承認し合うことができ
るのか不明だったからでした。この疑問は浅川さんにも当て嵌まります。「単
なる質料」あるいは「単なる質料的媒介物」が何故に相互的に承認し合うこと
ができるのか,説明をいただければ幸いです。
 次に,第二の引用を行います。

>Mensh=Person

あるいは,──

>Menshは常にPerson

 この図式は,要するに,人間は「単なる質料」として既に人格であるという
ことを意味していると思うのです。そうだとすると,もし「単なる質料」を文
字通り「単なる質料」──骨・肉・神経などの有機的全体としての人間──と
して解釈するならば,ここが俺の考えと違うところだと思います。俺の考えで
は,個別性と一般性とを統一する主体として,一般性をもち一般性をつくる個
別的主体として,要するに社会形成主体として,一言で言って「単なる質料」
ではない主体として,人間は類的本質=人格なのです(人格aも人格b1も人格
b2も結局のところ類的本質であるということについては,何度も述べてはいま
すが,例えば“[ism-study.64] Re^4: Arbeit und Person”(1999/09/16 
14:24)をご覧ください)。
 そうすると,「単なる質料」あるいは「単なる質料的媒介物」というものが
浅川さんの議論でどのような意味をもっているのか,明確にしていただきたい
のです。
 もし類的本質としての人格aおよび人格b1が人格b2に対して質料的だという
ことであるならば,なんの異論もないのです(但し,その場合には,俺の考え
では,人格aは人格b1に対しても質料的です)。あるいは,類的本質としての
人格aが類的本質としての物象に対して質料的だ(あるいは質料的なものに貶
められている)ということであるならば,なんの異論もないのです。けれど
も,「単なる質料」(絶対的な素材性)というのは,“〜に対して質料的”
(相対的な素材性)とはニュアンスが違うようにも思われるのです。ちょっと
この点,浅川さんのご主張を解釈しきれなかったので,もう少し説明をいただ
ければ幸いです。

3. 現実的人格の転倒性は認識的転倒の転倒性か?

 最後に問題になるのは,浅川さんの人格化論,承認論における転倒の位置付
けについてです。

>Menshの自己疎外/自己還元は、「物象の人格化→法的人格の措提」によって、「解決」
>されてもいます。Menshは、自分の「人格性」を疎外させて、しかし、物象に隷属しなが
>ら、主観的には逆に物象の運動法則を目的意識的に制御していると思い込むという転
>倒的な形で、「人格性」を「取り戻し」ているのです。

 要するに,結局のところ,「思い込」み(=意識の世界,主観の世界)にお
いて人格性が「取り戻」されているということなのでしょうか? 「思い込む
という転倒的な形」という部分における「転倒」とは,要するに,(現実的転
倒ではなく)認識的転倒のことですよね? 現実的人格が転倒的だという点は
俺と同じですが,その転倒の意味内容が俺とはちょっと違うようです。浅川さ
んの場合には,現実的人格が人格である──浅川さんの用語法では「「人格
性」を「取り戻」す──のはそう「思い込」んでいるだけなんだということに
なってしまうように思われます。
 文脈から見ると,この「取り戻し」が発生するのは法的人格・私的所有者の
措定(相互的承認)においてですよね? 先ず,「自分の「人格性」を疎外さ
せて、しかし、物象に隷属しながら」という箇所について言うと,これは明ら
かに人格の物象化において(つまり相互的承認に先行して)発生することです
よね? 次に,「主観的には逆に物象の運動法則を目的意識的に制御している
と思い込む」という箇所について言うと,これは相互的承認で初めて発生する
ことなのでしょうか? もしそうでないならば,何故に,「「物象の人格化→
法的人格の措提」によって」,人間(Mensch)の「自己疎外/自己還元」は
「「解決」されてもい」ると言えるのでしょうか?