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今井さん、皆さん、今晩は。

>  うーん,どうも俺の頭が悪すぎるせいか,神山さんの理論の解釈にますます
> 自信がなくなってきました。

 いいえ。私の方が未熟すぎるんです。困ってます。今井さんに理解され
なければ、世界中誰にも理解されないじゃないですか。
 あまり見解の違いが無いんじゃないか、という気がますます強くなる一
方、ますます私の頭も、どこにすれ違いあるのか、混乱を極めております
。

>  神山さんの場合には,「人格の実体は、承認である」以上,人格は承認の形
> 態なのでしょう。そうだとすると,やはりそもそも人格というものは関係のア
> ンサンブルなのだということになるように思われるのですが。
>  俺の考えでは人格の「実体」は承認ではなく類的本質であるということにつ
> いては,既に述べました。法的人格に即して言うと,資本主義社会ではこの
> 「実体」を獲得することはできないわけです。この「実体」を獲得したら法的
> 人格は消滅してしまいます。すなわち,俺の考えでは,資本主義の枠内では,
> 法的人格は実体獲得することができず,だからこそ抽象的普遍であるわけで
> す。しかしまた,類的本質という実体を獲得するべきものであり,だからこそ
> 自己矛盾であり,自己を止揚する変革主体になるわけです。

 とりあえず;
1)承認関係は、諸個人の、実在の、環境条件であり、諸個人は、承認
関係を内部化して行動原理にしている。
 2)商品生産の抽象的な法的人格は、実体(共同体)を喪失している。
そこで実体は、むしろアトム自体にある。交換のみが共同体である。この
相互承認が実体である。
 3)しかし、これは、実体(共同体)=社会的生産の喪失である。
社会的生産「という実体を獲得するべきものであり,だからこそ
自己矛盾であり」。

> >自己=総体=完結の突破プロセスが資本論でしょう。
> 
>  いや全く,おっしゃる通りです。ですが,資本が突破するということについ
> ては多くの人がこれを認めているのです(もちろん,宇野理論──世界資本主
> 義論は除く──のようにこれを認めていない人たちもいます)。佐藤金三郎さ
> んだってバックハウスだって,多分,これを認めるでしょう(完結した商品流
> 通の世界と完結を突破する資本主義的生産の世界との二層構造)。

 そうですか?2層構造論というのは、資本論の記述の存在性格の了解が
マルクスとは正反対でしょう?全く違うのではないですか?資本論は、存
在的にも、認識的にも、自己超出ですが、佐藤がそれを認めたとしても、
佐藤の把握は、認識=存在の自己運動という資格において存在を語るので
はないでしょう。2層構造とは、観察者の認識者の視線変換、観察者に依
存した対象という資格のものです。

>  うーん,神山さんの場合には,法的人格と類的本質は全く別ものであり,前
> 者は人格,後者は人格ならざるものである──このように俺は解釈していたの
> ですが。これに対して,俺の理論的なポイントは,あくまでも類的本質も物象
> の人格化としての人格も法的人格も“一つのもの”であるという点にあるので
> す。

私もそう真底考えているんですが…。

>  了解いたしました。これは俺の不注意でした。それでは次のように言い換え
> ましょう。──神山さんの場合には,労働の分肢としての交換においては人格
> はあるが,交換から区別される労働そのものにおいては人格はないからない
> (全くない)のだ,と。

 ちょっとちがうとおもいますけれど。
 商品論的世界は、直接には、交換関係であって、発生点は私的生産しか
ないのです。しかし、私的生産は、社会的生産として人格的でなければな
らず、人格的ではない。このことは、労働の完成した人格関係形成性を前
提しているのです。そこで交換の人格が立てられるのです。労働の本質と
して、労働に人格があるのです。しかし、商品生産として実現したあり方
では、交換が生産過程から分離し、生産過程の中ではなく、交換という、
私的生産の外に向う姿において、人格なのです。
 商品交換自体は、私的生産の内部を全く問わない、という存在層にある
のです。私的生産の中が何であろうと、私的所有者の自己労働として妥当
するのです。これが発生点なのです。商品交換自体は、私的生産の内部を
全く問わない、という存在層にあるのですから、私的生産の中の、賃金労
働者の人格は問われようがないのではないでしょうか。


> >法的人格
> >は、いったん成立したら、交換から自立化して、交換に先
> >立って、諸個人が獲得済みのものとして現れるのです。貨幣
> >を介した商品流通の展開において、交換に先立ち、諸個人は
> >法的人格です。
> 
>  ちょっと言わんとするところを正確に掴みかねているのですが,

 法的人格は、個々の交換という原始発生から切離されて、交換に先立ち
法的人格(商品は交換以前に交換を内面化、価格)であり、商売人の連関
総体(交換に留まらず流通、信用)を前提して、市民国家という意識にお
ける根拠をもって、自由な主体、主権者として人間が妥当する、というこ
とです。
 簡単に言えば、みんな、うまれつき、(承認された)市民国家の一員、
だということです。契約する前から、みんな法的人格なのです。このあり
方自体が、生産の前提として、生産によって存立しているのです。法的人
格は、再生産されることで生きているのです。

 
>  いや,根本的な問題は,ヘーゲルが“人格とは法的人格のことでしかない”
> と考えているということだと,俺は思うのです(「低い評価〔を〕与えて」い
> るのはこれの系論です)。

ちょっとそれは検討の余地があります。

>  神山さんの用語において,法的人格が優れた意味での人格だということはな
> んとなく解りました。そこで,類的本質は人格なのか,また商品所持者は(相
> 互的承認に先行して)人格なのか──この場合に,取り敢えずは,優れた意味
> での人格に対して半熟人格でも未熟人格でもなんでもいいのですが──,是非
> とも神山さんご自身の用語法でお答えいただきたいのです。

 相互承認における人間を人格と呼びます。
 類的本質は、人格です。生産→承認→人格、です。生産は、人格的能力
です。人格はその実現です。類的本質の実現は社会関係の形成によります
から、人格としての実現です。それが可能なのは、類的本質が即自的に人
格的能力だからです。
 相互承認に先行する人格は、私は、はじめから、重視していません。相
互承認するからです。意思関係の領域が生産から分離することが問題だか
らです。いったん成立すると、先ほど書いたように、はじめから人格だか
らです。承認を自己の行為能力にビルトインしてしまうからです。
 マルクスが人格(人格化)という言葉を用いても、人格の形態そのもの
(相互承認)という意味か、人格の内容(人格として現れる当事者、人間
の人格形成能力)という意味か、文脈によります。
 で、所持者を人格と呼ぶことにしたのは、今井さんの用語にあわせま
した。おまえに、ヘーゲルが(彼には交換過程論がありません)、アトム
は、承認を実体にして法的人格だと、現象学でいっているし――承認する
能力と承認した後という区別が意味を持たず、アトムが法的人格なのです
。意思関係の領域が、連続性から、分離している――)、法哲学では、人
格と人格の定在という便利な区別をしているので、その言葉を、採用した
のです。が、法哲の人格というのは、自由な意思の完成した世界を想定し
たものですから、考えると問題があるのです。

>  ヘーゲルの人格概念というのは,言うまでもなく,“人格とは法的人格のこ
> とである。従って人格は抽象的普遍である”というものです(人格≡法的人
> 格)。神山さんがヘーゲルから肯定的に引用した部分はいずれもこれを明示し
> ています。

引用しておいて無責任ですが、絶対知で人格という言葉が出てこなくても
、理論構造からすれば、自由な主体性の実現が絶対知ですからねえ。すみ
ません。ヘーゲルは重たいんで勘弁してください。

> >真実態は、社会的生産を自己のものに包摂した人格、法的
> >人格の抽象性を止揚した、社会的媒介を形成し終えた人間で
> >す。法的人格の、自己性、社会形成性が社会的生産を自己の
> >ものにした、完成した類的本質です。社会主義こそ、生き生
> >きした相互承認の世界でしょう。社会主義こそ、資本(社会
> >的生産)と法的人格(個人)との無媒介な統一の世界から脱
> >却した、個人が自己の媒介として社会を形成し終えた社会、
> >人間が自由な人格として振舞う世界でしょう。
> 
> と述べているからなのです。そうだとすると,共産主義では法的人格は消滅す
> るように読めるのです。法的人格に代わって「完成した類的本質」が現れるよ
> うに読めるのです。で,この「完成した類的本質」こそが「自由な人格」,真
>実態における人格と同義のものであるように読めるのです(このほかにもヘー
> ゲル人格概念と相入れないような神山さんの記述については,この投稿のこれ
> までの部分にこれを入れておきました)。そうだとすると,ヘーゲルとは随分
> と違っちゃうような気がするのです。だってそうでしょう,もし「完成した類
> 的本質」が「自由な人格」であるというのが真実態における人格ならば,法的
> 人格の方はニセ人格[*1]になっちゃいます。これに対して,ヘーゲルにとって
> は,人格の唯一の真実態(自己意識の真実態ではありません)は法的人格であ
> るはずです。ですから,この引用文を読む限りでは,何故に神山さんがあのよ
> うなヘーゲルからの引用を並べたのか,俺にはちょっと解釈不可能なのです。
> 

完成した類的本質は、自由な人格の総体システム化でしょう。法的人格の
社会形成資格(自由な個人のみが主体)を完成したものでしょう。これを
真の人格への止揚ということも可能でしょう。法的人格が偽人格というの
は、法的人格は幻想だから騙されるな、というように私は受取りがちなの
であまり使いたくないのですが、趣味の問題でしょう。法的人格の限界批
判の、社会的生産の限界批判の、完成、両契機の対立性の止揚、が社会主
義と考えます。それって、まさにヘーゲルの、宗教の世界でしょう。