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浅川さん,ISM研究会の皆さん,今井です。
浅川さん,第三者的視点からのコメント,どうもありがとうございます。人
格に関するこの論争では,メインの対立点は,商品所持者が既に物象の人格化
として人格であるのかないのかという点と,類的本質が人格であるのかないの
かという点との二点だけだったのですが,論争の過程で俺も神山さんも次から
次へと関連する論点を出さざるを得なくなり,また俺の説明が論証不足である
ということもあって,オーディエンスの方にはなかなか解りにくかったのでは
ないかと推察します。整理する浅川さんにもご苦労をおかけしました。
俺と神山さんとの対立点については,浅川さんの整理で大体,宜しいと思い
ます。但し,いくつかの点について,ちょっとだけ補足をしておきます。
>おそらく、今井さんにとっても
>「自由な法的人格《2'》」は、「物象の人格化としての人格《2》」が自分自身を
>「類的本質の担い手《1》」でもある者として捉えかえして、自己矛盾の自覚にいた
>る際の重要な媒介契機としての意義を持つのでは?事実上の社会形成主体であること
>を自覚する上で、形式的な社会形成主体であることの自覚――おそらく、この自覚は相
>互承認を介してしかもたらされない―――は、前提条件となるのでは?
おっしゃる通りです。俺の考えでは,人格が類的本質かつ社会的諸関係のア
ンサンブルであるということによって初めて,法的人格は変革主体として位置
付けられるということなのです。資本主義社会において変革主体になり得るの
は法的人格しかないのですが,但し法的人格であるということを否定された法
的人格,自己矛盾を意識・自覚する法的人格です。この点が説得力不足である
のかもしれませんが,“人格は法的人格でしかない”と考えてしまうと,どう
も法的人格の重要性も却って不明確になってしまうような気がするのです。俺
の考えでは,人格の現象形態としての法的人格は,労働の自己矛盾を人格の自
己矛盾として意識・自覚するという点で,変革主体であり得るのです。もし人
格が法的人格でしかないのであれば──つまりもし人格が類的本質という本
質,物象の人格化という実存形態,法的人格という現象形態の自己矛盾的統一
でないのであれば──,法的人格は自己矛盾を意識・自覚するものではなくな
ってしまうのではないのかと俺は考えているわけです。ですから,俺の考えで
は,法的人格の変革主体としての位置付けを確認するためには,どうしても資
本主義社会での人格が自己矛盾であるということの把握が必要になり,そし
て,それが自己矛盾であるということを把握するためには,どうしても類的本
質(“物象の人格化=社会的諸関係のアンサンブル=ペルソナ”の反対物)が
人格であるということの把握が必要になるのです。この点は,
“[ism-study.52] Re^2: Questions About "Person"”(1999/09/05 22:22)
では,──
>俺の場合には,変革主体論において
>は,法的人格は“自己矛盾を意識する主体”という位置が与えられます
また,──
>変革
>主体論において法的人格が決定的に重要であるのはこの
>労働の自己矛盾を意識する主体であるからだと,俺は考
>えます。もちろん,資本主義的生産の中で変革主体が変
>革能力を客体的に身につけていくということは当然の前
>提ですが,その延長線上に,変革意識を主体的にもつよ
>うにならないと,社会変革は起こりません。正にこの点
>に,人格の自己矛盾という定式化の実践的意義があると
>俺は考えます。
と俺は強調したつもりだったのですが,恐らく,論旨が明快でないせいで,俺
の主張の中でこの点がなかなか皆さんに理解していただけていないのではない
かと思います。
>今井さんにとって、〈人格〉の重要性は、〈類的本質〉言い換えれば〈本源的な社会的
>関係形成主体《1》〉の重要性であり、神山さんにとっては、〈人格〉の重要性と
>は、〈相互承認〉の重要性、すなわち〈自由な実践的な社会形成主体〉ただし形式的で
>抽象的なそれ(《2'》)の重要性に他ならない。
第一に,この点も説明が下手くそでなかなか理解していただけないと思うの
ですが,こと変革主体形成論に関する限りでは,類的本質と物象の人格化(法
的人格はこれに含まれます)との──関係を形成する主体と「諸関係の被造
物」,「社会的諸関係のアンサンブル」との──意識された矛盾が重要だとい
うのが俺の考えなのです。ですから,どちらを重視するのかではなく,どちら
も重視しなければならないと主張した(つもり)だったのです。けれども,類
的本質としての人格を把握しないことにはこの矛盾もどこかにすっ飛んでしま
うから,どうも類的本質,類的本質と絶叫しすぎたきらいがあり,その結果と
して,皆さんからは“今井は人格論において法的人格の問題を無視して,類的
本質のことだけを一面的に強調している”と思われたのかもしれません。
第二に,これはかなり厄介なのですが,類的本質も「自由な実践的な社会形
成主体」なのです。いや,正に類的本質こそが「自由な実践的な社会形成主
体」なのです。そもそも人格というものは「自由な実践的な社会形成主体」な
のです。但し,資本主義社会では,類的本質は否定的・自己疎外的に──自己
からの類の疎外として──形成されているわけです。不自由な主体は社会形成
主体としての資格を持ちません。理論的でしかない(つまり実践的ではない)
ような主体はマルクス的な類的本質ではなく,フォイエルバッハ的な「人間的
本質」でしょう。類的本質は,正に実践的であるからこそ,実践において自己
疎外可能であるし,実際にまた自己疎外するのです。法的人格が「自由な実践
的な社会形成主体」として振る舞おうとするのも,正にそもそも人格というも
のが「自由な実践的な社会形成主体」だからこそなのです。ですから,浅川さ
んが類的本質に対して「本源的」と形容する以上,浅川さんの整理では,物象
の人格化あるいは法的人格に対しては“現実的”──『フォイエルバッハ・テ
ーゼ』の第6テーゼでの「その現実性においては」という限定を念頭に置いて
います──と形容するのが適切であるように思われるのです。
>「物象はどこで人格化するか?」
>という問いも、二つの意味を持ってしまいます。つまり、「物象はどこで自分の
>身代わりとなって行動してくれる能動的主体を措定するか?」と「物象は
>どこで、相互承認しあう自己意識を自己の形態として措定するか」の二つ
>である。
俺の考えでは,「措定」そのものについて言うと,両者は同時に行われるの
です。すなわち,商品の人格化について言うと,商品所持者こそは「自分の身
代わりとなって行動してくれる能動的主体」であり,且つ「〔これから〕相互
承認しあう〔=相互承認を予定する〕自己意識」であるのです。この場面で
は,「自分の身代わりとなって行動してくれる」ということは「〔これから〕
相互承認しあう」ということを含んでいるわけです。なにしろ,商品について
言うと,相互的承認がないことには,商品は商品として譲渡され得ないわけで
すから。
但し,上記引用文の直前にある「相互承認している自己意識」という箇所か
ら判断すると,そしてまたやはり上記引用文の直前にある「後者〔=「相互承
認している自己意識」〕のほうには前者〔=「主体的能動性」〕が契機として
含まれています」という箇所から判断すると,上記引用文で浅川さんが言及し
たいのは,どうやら,これから「相互承認しあう自己意識」のことにではな
く,既に「相互承認しあ」った「自己意識」[*1](つまり法的人格)のことに
ではないかと,俺は推察します。以下では,この推察を前提にして話を進めま
す。
[*1]ここでは,浅川さんが現在進行形(=「してい
る」)を用いているのに対して,俺は過去形(=“しあ
った”)を用いています。けれども,これは法的人格が
相互的承認によって措定された主体であるという発生的
順序を敢えて強調するためにであって,時間的順序は同
時に(現在進行形で)行われるわけです。
ひょっとすると,この点が皆さんに誤解されているのかなと思うのですが,
ひとたび物象の人格化が発生するや否や,その後での物象の人格化としての人
格が行う当事者行為は,総て,物象の人格化の契機的展開なのです。発生的関
連において商品所持者が商品の担い手として交換過程に現れた段階で物象の人
格化が既に成立していると俺は考えますが,もちろん,物象の人格化がここで
終わるわけではありません。これまでの投稿で強調した(つもり)のは,物象
の人格化が交換過程で承認するということも,資本家については資本の生産過
程で資本家として行う総ての行為も,全部が全部,物象の人格化の契機的展開
だということです。
但し,もし浅川さんのように「物象はどこで人格化するか?」というように
問題を立てるならば,それは契機的展開の契機を探るということだけではな
く,発生の起点を探るということにならざるを得ません。それならば,俺は,
“商品については商品所持者が交換過程に現れた瞬間に既に商品の人格化であ
る”とお答えするわけです。もちろん,その後での商品所持者の行為は,商談
だろうと譲渡だろうと仮契約だろうと本契約だろうとも,総て商品の人格化と
しての当事者行為になるわけです。この点では,俺も神山さんも余り違いはな
いはずであって──神山さんの場合でも,恐らく相互的承認した後では私的所
有者としての商品所持者の行為は総て人格の当事者行為でしょう──,対立点
はただ(商品の人格化としての)人格の発生起点──交換過程に現れた後か,
それとも相互的に承認し合った後か──だけにあると思うのです。相互的承認
が,神山さんにとっては人格一般の発生的契機であり,これに対して俺にとっ
ては商品の人格化としての人格が自己を(つまり自己が人格であるということ
を)実証する(sich bewähren)形態的契機であるという点──これだけ
が対立点なのであって,少なくとも交換過程の内部に関する限りでは(生産過
程についてはいろいろと難しい問題がでてくるのですが),その他の雑多な契
機的展開に関しては俺と神山さんとの間で重大な対立はないように思われま
す。