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Y.K.君,ISM研究会の皆さん,今井です。相変わらず,余り深く考えずに,
一気に書いちゃいます。
>予定調和論に根拠は無いんではないでしょうか。
いや,ここが厄介なところだと思うのです。「貨幣の資本への転化」で考察
されているような予定調和“論”(という表象)にはしっかりした現実的根拠
があるんじゃないですか。だって,「はじめに行いありき」で,共同本質
(Gemeinwesen)──つまり貨幣──をつくっちゃったわけですから。つくれ
るとは限らないんだけれども,実際に(in fact)目の前に貨幣がある。社会
が機能するとは限らないんだけれども,実際に(in fact)目の前に社会が機
能しているわけです。但し,このように予定調和“論”には根拠はあるのだ
が,もちろん予定調和そのものには根拠はないわけです。あくまでも予定調和
は当為に──予定調和“論”に──留まります。
>ベンサムのばあいは、
>このような自明性・確実性がぜんぜん無いと思うのですが。自明性から説明する
>ことができない以上、ベンサムを天賦人権にもとづくものと言うことはできない
>と思います。
俺にもこの辺がさっぱり解らないところです。
(1)先ず確実性について。“ベンサム”においても確実性は必ず形成されざ
るを得ないわけです。但し,これがちょっと厄介なのですが,あくまでも主観
的な確実性(=確信)です。だって,社会をつくりましょうなんて決議したわ
けでもないのに,少なくとも一面では社会が目の前で機能してしまっているわ
けだから(他面では社会は機能していないわけですが,それは「貨幣の資本へ
の転化」の後のお話)。こりゃもう確信するしかないでしょう。この場合に当
事者が確信するのは,もちろん自分がガリガリ亡者であるということではな
く,社会が予定調和的に機能しているであるということです(もちろん資本主
義的生産のリアリティによって社会が予定調和的に機能しているのではないで
はないという確信も生まれてくるけれども,それは「貨幣の資本への転化」の
後のお話)。
(2)次に自明性について。ここも俺の脳髄には靄がかかっていて,うまく説
明することができないところです。俺は“[ism-study.42] Re^7: On "New
Liberalism" etc.”(1999/08/07 14:47)で[*1]次のように述べています。
──
>果たして,私利私欲のガリガリ亡者であるということそ
>れ自体が「天賦人権」なのか。そうではなかろう。私利
>私欲のガリガリ亡者であっても,それでもなお社会が予
>定調和的に機能するということが「天賦人権」なのであ
>ろう。
つまり,没交渉性そのもの,それ自体が自明なもの,自然なもの,天賦のもの
と考えてしまうと,よく解らないのではないか,というのが俺の考えなので
す。独裁者の狡賢い企みとか愚民どもの下劣な討議とか,そういう“社会的”
なメカニズムがないのにも拘わらず,事実そのものにおいて,事実的に,実際
に,事実上,“社会”が機能してしまっている以上,社会的・人為的・自覚的
に機能させられているのではないのにも拘わらず社会が機能してしまっている
以上,社会であっても社会ではない以上,──そうである以上,この社会は自
明なもの,自然なもの,天賦のもの,非社会的なもの,社会ではないものとし
て現れざるを得ないのではないか,という風に俺は解釈したわけです。で,こ
の媒介によって,“没交渉的であってもいーんです”という“権利”も自明な
もの,自然なもの,天賦のものとして現れる,と。曖昧な言い方ですが,社会
形成とは無関係に“没交渉って素晴らしい”というのが権利なのではなく──
そんなのは社会的には絶対に承認されないガリガリ亡者の一方的な宣言です
──,社会形成に対する疎遠な,没交渉な関係(つまり無関係な関係)におい
て,“没交渉‘でも’いーんです”というのが権利だろうと考えているわけで
す。
[*1]因みに俺はそこでは,「天賦人権の真のエデン
〔ein wahres Eden der angebornen Eden〕」などと書
いていますが,もちろんこれは“ein wahres Eden der
angebornen Menschenrechte”の誤記です。どうも失礼
いたしました。
要するに,没交渉性そのものがダイレクトに正当化されているのでは決して
なく──そんなもん,もし社会形成から切り離されてそれ自体として考察され
るならば,ただの放埒です[*1]──,没交渉的であるのにも拘わらず社会形成
されてしまっているという観点から,没交渉性が媒介的に(つまり社会形成を
通じて),また消極的に(つまり,もし事実そのものにおいて社会形成に支障
が生じるのであれば,もし事実そのものにおいて予定調和が成立しないなら
ば,直ちに,無媒介に,そっくりそのまま攻撃されなければならないような形
態で)正当化されているのではないかと考えたわけです。だから,まぁ,自
由・平等・所有とは“ベンサム”はやっぱりちょっと違うわけです。
[*1]実際にまた,後で述べるように,もし社会が交換を
通じて実現されていないならば,私的利益の追求は正当
化されないし,あるいは,たとえ社会が交換を通じて実
現されているとしても,もしドロボー,ペテン師のそれ
のように社会形成を阻害するような私的利益の追求は正
当化されないわけです。
(3)最後に天賦人権そのものについて。そもそも天賦人権というものは一つ
の矛盾──人権は社会的に形成されるのにも拘わらず,天賦として,自然的に
形成されたものとして,つまり社会的に形成されたのではないものとして現れ
るという矛盾,一言で言って,“社会は非社会である”,“自覚は無自覚であ
る”という矛盾──です。「天賦人権にもとづくもの」であるのかどうかとい
うことを考える際にも,それが矛盾であるということの把握が肝心だと思いま
す。Y.K.君もよくご存じのように,「天賦人権の真のエデン」のエレメントと
しての自由・平等・所有は資本主義的生産において徹底的に否定されるわけで
す。同様にまた,“ベンサム”も後で述べるように資本主義的生産では徹底的
に否定されます。この点で,“ベンサム”は自由・平等・所有と全く同様に,
天賦人権のゴタマゼ的統一のエレメントをなすと言っていいのではないでしょ
うか。
Y.K.君が「自明性・確実性」を重視するのは,恐らく,(a)「天賦人権」の
中の「天賦」という部分に着目して,(b)そのような天賦性が表象されざるを
得ない現実的根拠を探っているからだと思います。もちろん,それも重要で
す。しかし,それ以上に,「天賦人権」が正に「天賦」+「人権」として一つ
の矛盾をなしているという観点も重要なのではないか,と考えた次第です。
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それでは,次の問題はどうなるのでしょうか? ──自由・平等・所有はそ
の形式性・抽象性の故に,資本という実質的・具体的・社会的な(しかし敵対
的な,非人格的=物象的な,無自覚的な)存在によって否定され,非現実化さ
れなければなりませんが,しかし,共産主義社会は自由・平等・所有を肯定
し,現実化しなければならないはずです。個別性という観点から見ると,正に
共産主義社会とは自由・平等・所有の現実化のことでした。個別性という観点
から見ると,共産主義社会とは自由・平等な人格の労働に基づく個人的所有の
再建の別名でした。これに対して,“ベンサム”は一体にどうなるのでしょう
か? 自由・平等・所有と同様なことが“ベンサム”の場合にも妥当するので
しょうか? 特に,共産主義社会で本当にガリガリ亡者が現実化されるのでし
ょうか?
先ず,資本主義社会での“ベンサム”の否定について。これについては,大
筋では,それほど難しい問題はないでしょう。諸人格の没交渉性は,諸物象と
しての諸労働力──資本の生産過程の内部では労働力は資本という物象の実存
形態です──の強制労働の強制的な結合に転回します。資本の生産過程の敵対
的社会性が当事者意識に暴露されるということによって,無自覚的な社会性
は,資本の公共性(無自覚性の枠内でではあるが,自覚的な社会性)に転回し
ます。個別的利益の一般性は,個別的資本の一般的利益に転回します。最大多
数の最大幸福は,資本の最大利潤・最大蓄積に転回します。静態的な予定調和
は,不均衡の均衡化と均衡の不均衡化としてしか存立し得ず,周期的な波動を
繰り返す資本の動態的な生命過程(生活過程)に転回します。
次に,共産主義社会での“ベンサム”の肯定について。 封建制社会とかで
は,自己利益が人格的依存性(領主だの共同体だの殿様だのお家だの)の下に
包摂されていました。領主の利益だの共同体の利益だのの形態で社会(実はエ
テ公の集団)の利益が“俺様”の利益を包摂していました。“お家のために切
腹してくれい”というわけです[*1]。どれほど没交渉的な形態においてであっ
ても,自己の私的利益を飽くなきまでに追求するということは偉大な進歩でし
た。“私利私欲を追求してもいーんです”ということは“ドジンの村の利益な
んて考えなくてもいーんです”,“ドジンの酋長の欲求なんて考えなくてもい
ーんです”ということです。“猿山のことなんて考えなくてもいーんです”,
“ボス猿のことなんて考えなくてもいーんです”ということです。だから,ガ
リガリ亡者という疎外された形態においてであっても,そして予定調和という
無自覚的な形態においてであっても,やはり“ベンサム”の形成は,共産主義
社会の主体である自由な個体性の形成にとって不可欠な回り道であったわけで
す(一気に論理が飛躍)。
[*1]ドジンの集団においても,飽くなきまでに私的利益
を追求しようという個人は偶然的には発生したでしょ
う。しかし,それは決して社会的に正当化され得るもの
ではありませんでした。何故ならば,社会形成が交換過
程を通じて行われているのではない以上,そのような偶
然的個人は社会形成を阻害するものでしかないからで
す。資本主義的生産に歴史的に先行した諸形態──交換
過程を通じて社会が実現されているのではない共同社会
──を考えてみてください。そこでは,商人や高利貸し
やは正当化されてはおらず,逆に社会秩序を破壊するも
のとして糾弾されました。
これに対して,既に述べたように,単純商品流通の世
界では,社会形成は予定調和的に成し遂げられるしかな
いから,逆に,ガリガリ亡者が“いーんです”という形
態で正当化されるしかないわけです。飽くなきまでに私
的利益を追求するとは言っても,例えばドロボー野郎,
ペテン師野郎は,交換過程を阻害し,そしてそれを通じ
て社会形成を阻害するから,単純商品流通の世界でも絶
対に正当化されません。
繰り返しますが,“ガリガリ亡者であってもいーんで
す”というのは,あくまでもただ社会形成に対する関係
の中でのみ発生する正当化形式であって,社会形成とは
無関係に“何をやってもいーんです”というのとは全く
異なるわけです。それどころか,交換過程の社会的成立
に対する関係という観点から見ると,“ガリガリ亡者で
あってもいーんです”(だって交換過程を成立させるか
ら)というのは“ドロボー野郎,ペテン師野郎であって
はダメなんです”(だって交換過程を破壊するから)と
いうのと表裏一体なもの,不可分なものなのです。あく
までも単純商品流通における社会形成というのが絶対的
な基準になっているわけです。
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ちょっと自分で書いていても“論証が甘いな”という感が否めないのです
が,まぁ,試論ということでお許しを。中途半端ですが,ひとまずここで切
ります。
>気楽に投稿できるようにするためには、MLの議論は後々まで深く詮索しないの
>がマナーかと(と言って過去の恥をごまかす ^^;)。
発言する方としては,“旅の恥はかき捨て”というくらいの気持ちで大ボラ
吹きましょう。