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神山さん,ISM研究会の皆さん,今井です。神山さん,いつもいつも俺のく
だらない議論にお付き合いいただき,誠にありがとうございます。
>> >「実践的主体」「個別的な自覚的個体性」は、私が「自由な自己意識」・
>> >労働の媒介性と呼んだものに近い気がします。
>>
>> 近いのだけれども,恐らく違うのでしょう。何故ならば,(a)もし商品所持
>> 者が交換過程では即自的に「一般的な実践的主体」,「個別的な自覚的個体
>> 性」であり,且つ(b)もし神山さんの「自由な自己意識」が人格であるなら
>> ば,そもそも商品所持者は交換過程では物象の人格化であるということになっ
>> てしまいますから。なお,神山さんは,“[ism-study.5] Re: On "Kabunusi
>> Soukai"(OKUMURA Hirosi)”(1999/07/22 16:31)の中で,──
>>
>> >〔一般的に,〕人格とは、自由な自己意識ということ。
>>
>> と述べていますから,恐らく神山さんにとっては,上記の仮定(a)が成立しな
>> いのでしょうね。
>
> すみません。ちょっとよくわからないのですが。
いえいえ,そんな深刻なお話ではないのです。お手数ですが,もう一度,
“[ism-study.20] Re^4: On the "Person" etc .(1)”(1999/08/03 12:21)
をご覧ください。そこでは,神山さんが“[ism-study.17] Re^3: On the
"Person" etc.”(1999/08/02 18:53)で提出した──
>法に先行する経済的人格化のような関係をお考えですか。そ
>の場合、「人格」とは何ゆえ、「人格」であるということになるのでしょ
>うか。
という問題に対して,俺は──
>一方では社会を形成する一般的な実践的主体(相互的承認において
>他の人格を承認することができる個人)であり,他方では自分で責任を負うこ
>とができる個別的な自覚的個体性(意志と意識とを持ち自ら責任を負って自立
>的・独立的に行為することができる個人)であるからです。そのようなものと
>して承認されていようといまいとも……。商品所持者は,相互的に承認される
>前から,交換過程ではそのように振る舞っているのではないでしょうか? そ
>もそも交換過程で相互的に承認し合うことができるということ自体,自由な社
>会形成主体であるということを明示していると考えたわけです(赤ん坊は人間
>ですが,人格として交換過程で相互的に承認し合うことはできません)。
と回答したわけです。で,これに対して,神山さんが,“今井が言う「個別的
な自覚的個体性」かつ「一般的な実践的主体」というのは俺(=神山さん)が
言う「自由な自己意識」と近い”とおっしゃったわけです。
ところが,俺の場合には相互的承認を行うべき主体が既に「個別的な自覚的
個体性」かつ「一般的な実践的主体」であるのに対して,神山さんの場合には
「自由な自己意識」は相互的承認によって初めて発生する──相互的承認の以
前には人間は自由な自己意識ではない──はずなのです。われわれの間で,こ
こが決定的に違うはずなのです。何故ならば,神山さんは「〔一般的に,〕人
格とは、自由な自己意識ということ」とおっしゃっており,そして,もし相互
的承認に先行して商品所持者が「自由な自己意識」であるならば,商品所持者
は交換過程に入り込む(eingehen)時点で人格(当然にここでは商品の人格化
としての人格以外にはあり得ないはずです)であるという結論になってしま
い,これは神山さんが受け入れられない結論だからなのです。
と言うわけで,神山さんの「自由な自己意識」と俺の「個別的な自覚的個体
性」かつ「一般的な実践的主体」とはよく似ているようで,恐らくちょっと違
うだろう,と。前者は相互的承認によって措定され後者は相互的承認を措定す
る,と。それだけの話なのです。ちょっと,俺の方がもったいつけた言い回し
をしてしまったようです。
神山さんの用語法での「個別的な自覚的個体性」かつ「一般的な実践的主
体」は神山さんの用語法での「自由な自己意識」と同じであるのかもしれませ
んが,俺の用語法での前者は神山さんの用語法での後者とは異なるわけです。
お互いに同じような用語を用いながら,その意味内容が実際には異なっていま
す。そこで,俺のような混沌頭脳の持ち主は絶えずそのことを確認しないと混
乱してしまうので,「近いのだけれども,恐らく違うのでしょう」と申し上げ
たわけです。説明不足で失礼いたしました。
神山さんは“[ism-study.26] Re:”(1999/08/04 20:42)の中で次のように
述べています。──
>人格だから、相互承認できる、というのが今井さんで、商品の行動とし
>て自己の行動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格、ゆ
>えに、というのが私です
これに対して,俺は,“[ism-study.28] A Confirmation About Person”
(1999/08/04 23:26)の中で,──
>(2)もしそうならば──これは(1)の解答
>がyesである場合にのみ生じる質問です──,「商品の行動として自己の行動
>をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格」は人格的な振る舞い
>だと思うのですが,商品所持者は,交換過程にeingehenした瞬間には,まだ
>「商品の行動として自己の行動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意
>識的性格」を持っていないのですよね?
と質問しました。この質問に対して,神山さんは,“[ism-study.30] Re: A
Confirmation About Person”(1999/08/05 12:21)の中で,──
>もっている考えます。
と答えています。
申し訳ありません。ちょっと俺の方に誤解があったようです。と言うか,俺
の理論構造に引きつけて神山さんの主張を理解しようとしてしまったようで
す。そうだとすると,神山さんの場合には,(a)「商品の行動として自己の行
動をする疎外された自己性、人間行動の媒介的意識的性格」は,少なくともそ
れだけでは(つまり相互的承認を経ないと),人格的な振る舞い(人格の振る
舞い)ではないのか,さもなければ(b)商品所持者は交換過程に入り込む
(eingehen)時点で(つまり相互的承認に先行して),人格として振る舞って
いるが,まだ商品の人格化ではないのか,このいずれかだと思います。恐ら
く,神山さんが(b)のように考えているわけはないと思いますから,(a)のよう
に考えているのでしょう。そういうことですよね?
>人間−物の意識構造、私的所有と
>して区切られる空間の内面構造を、当然維持したまま、交換に入るわけで
>す。
これは俺にもよく解るのですが,人間と物とのクローズドな領域での話であ
って──もちろん俺が“[ism-study.20] Re^4: On the "Person" etc .(1)
”(1999/08/03 12:21)で強調しているように,オープンな交換過程において
もクローズドな領域の中ではこの構造が持続するのですが──,いずれにせ
よ,対他的な振る舞いではないと思うのですが,いかがでしょうか? 俺の場
合にも,何度も強調しているように,商品の人格化は交換過程というオープン
な領域で(但し相互的承認に先行して)発生するわけです。
神山さんもご承知のように,俺が問題にしているのは,オープンな交換過程
における商品所持者の対他的な振る舞いのことです。交換過程に入り込む
(eingehen)瞬間から身につけている「経済的扮装」は対他的・社会的な扮装
ですよね? 人間と物とのクローズドな関係のお話ではないですよね?
で,肝心の物神崇拝と人格化との関係についてですが,これについてやる
と,ちょっと論争領域が広がりすぎてしまうような気もします。但し,俺自身
の問題意識をご理解いただくために,ほんのちょっとだけ説明しておきます
(ますます議論を混乱させてしまうかもしれませんが,議論の背後にある問題
意識としてご了承ください)。以下は,神山さんの投稿へのコメントではな
く,俺の問題意識の提示だとお考えください。現在,われわれの間で問題にな
っていることと直接に関連するものではないから,気楽にお読みください。
奥村さんの『株主総会』第1,2章についての俺のレジュメの図6をご覧いた
だきたいのですが,俺は,人格化は認識的転倒としての物神崇拝を前提して成
立する現実的転倒だと考えています。当然に,物神崇拝が認識的転倒であると
いう点,物神崇拝が人格化に先行する(逆に言うと人格化は物神崇拝を前提す
る)という点には,神山さんもご了解いただけると思います[*1]。
[*1]但し,俺がここで用いている物神崇拝は非常に広義
で,──ブルジョア社会で物象化によって必然的に措定
される認識的転倒という意味で──用いています。だか
ら,これには,商品物神・貨幣物神・資本物神だけでは
なく,単純商品流通の諸表象をも含めてしまっていま
す。
マルクスのテキストに即しては,やはり神山さんはよ
くご存じの次の引用をご覧ください。──「生産物が生
産者たちの所有者である〔……〕という物神崇拝〔der
Fetischismus [...], daß das Product
Eigenthümer des Producenten ist〕」(61--63,
Teil 6, S.2145)。ここで,「所有者」
(Eigenthümer)というのが今一つ解りにくいとこ
ろですが,大谷さんが個人的所有の再建の論文で書いて
いたように,「所有物」(Eigenthum)の誤記でしょ
う。また,神山さんは,よくご承知のように資本主義社
会では生産者というのは要するに資本家の単純商品流通
に即した規定性のことです。そうだとすると,ここで
は,マルクスは単純商品の表象──自己労働に基づく所
有──のことを「物神崇拝」と呼んでいることになりま
す。
その上で,もし敢えて“ひょっとするとここに問題意識の違いがあるのかな
ぁ”という点を挙げるならば,俺はどうしても物象の人格化は人格の物象化と
同様に現実的な転倒である[*1]ということを強調したいのですね。恐らく物象
の人格化が現実的な転倒であるということ,相互的承認にしても頭の中で“こ
いつは正当な私的所有者なんだ”と考えるだけではなく,そう考えた上で──
そう考えるということを根拠にして──現実的に振る舞う(自由・平等な私的
所有者に対する仕方で相互的に振る舞う──つまり,ドロボーしない,ぶんな
ぐらない)ということを強調したいのです。(これについても,神山さんと俺
との間で違いがあるとは思えないのですが,ここをどうしても強調しなければ
ならないという問題意識に違いがあるのかもしれません)。これによって,物
象化と人格化との矛盾,そしてそれを通じて物象化と物神崇拝との矛盾を考え
ていきたいと思っているわけです。(もちろん,俺の問題意識を神山さんに押
し付けようとしているわけでは決してありません)。
[*1]こういう問題意識をおれが抱くようになったのは,
神山さんもよくご存じのマルクスの次のテキストにヒン
トを得てのことでした。──「とは言っても,利潤率を
通じての移行を媒介にして剰余価値が利潤という形態に
転化させられる仕方は,生産過程中に既に起こっている
主体と客体との転倒のいっそうの発展であるのに過ぎな
い。既にそこで〔=生産過程で〕われわれは,どのよう
にして労働の社会的生産力の全部が資本の生産力として
表示されるのかということを見た。一方では,価値──
生きている労働を支配する過去の労働──が資本家とい
う形で人格化される。他方では,逆に,労働者が,単に
対象的であるのに過ぎない労働能力として,商品として
現れる。転倒した関係に照応して,既に本来的な生産過
程そのものにおいて,〔転倒した関係に〕照応的に転倒
した表象,移調した意識が必然的に発生するのであり,
この意識は本来的な流通過程の諸転化と諸変容とによっ
ていっそう発展させられるのである〔Die Art, wie
mittelst des Uebergangs durch die Profitrate der
Mehrwerth in die Form des Profits verwandelt
wird, ist jedoch nur die Weiterentwicklung der
schon während des Productionsprocesses
vorgehenden Verkehrung von Subjekt und Objekt.
Schon hier sahen wir wie sämmtliche
gesellschaftliche Productivkräfte der Arbeit
sich als Productivkräfte des Capitals
darstellen. Einerseits wird der Werth, die
vergangne Arbeit --- die die lebendige beherrscht
--- im Capitalisten personnificirt; andrerseits
erscheint umgekehrt der Arbeiter als blos
gegenständliches Arbeitsvermögen, Waare.
Dem verkehrten Verhältniß entsprechend,
entspringt nothwendig schon im eigentlichen
Productionsprozeß selbst entsprechend verkehrte
Vorstellung, transponirtes Bewußtsein, das
durch die Verwandlungen und Modificationen des
eigentlichen Circulationsprocesses weiter
entwickelt wird〕」(Hm, S.61; Vgl. auch 61--63,
Teil 5, S.1604)。
神山さんもご存じのように,ここでは,現実的転倒と
認識的転倒とがマルクス自身によって明瞭に区別されて
いるわけです。「主体と客体との転倒」([die]
Verkehrung von Subjekt und Objekt)あるいは「転倒
した関係」([das] verkehrte [...]
Verhältniß)が現実的転倒であり,「照応的に転
倒した表象」([die] entsprechend verkehrte
Vorstellung)あるいは「移調した意識」([das]
transponirtes Bewußtsein)が認識的転倒です。認識
的転倒は現実的転倒から「発生」(entspringen)し,
且つ──差し当たって──現実的転倒に「照応」
(entsprechen)するわけです(後には矛盾するはずで
す)。俺が着目するのは,「資本家という形で人格化さ
れる」(im Capitalisten personnificirt)という箇所
から解る通り,人格の物象化と同様に,物象の人格化も
また現実的転倒であるということなのですね。認識的転
倒は物象の人格化からは区別されるということなので
す。
さて,上記のような発生的な関連を強調したい俺の問題意識からすると,神
山さんがおっしゃる──
>価値形態論の局面と交換過程論の局面との区別は、商品の能動性の媒介
>としての価値形態の産出と、人間の欲望満足行動を介した商品相互の実現
>と考えますが(これはまた別の機会の論題で)、とりあえず、区別がある
>ことが分ればいいのではないでしょうか。
の中で「とりあえず,区別がある」というところが非常に重要になってくるわ
けです。「商品の能動性の媒介としての価値形態」──つまり物象化とその発
展──を取り扱う価値形態論と,認識的転倒(ここでは狭義の物神崇拝,商品
の物神的性格)を物象化という根拠によって暴露する物神性論と,人格化を取
り扱う交換過程論との区別が,上記の発生的な関連の区別に照応しているわけ
です。但し,どのように照応しているのか,今一つよく解らないから,悩んで
いるわけです。
もちろん,神山さんが「これはまた別の機会の論題で」と述べている(しか
も当座の問題とは直接的には無関係である)以上,このことに触れるのはフェ
アではありません。ですが,なんで俺が“[ism-study.29] An Answer To 3
Questions”(1999/08/05 9:48)の中で,物象化の局面と人格化の局面との話
をしている時に,口を滑らせて「価値形態論の局面と交換過程論の局面とが,
従ってまた物象化の局面と人格化の局面」などと言ったのかということを,俺
の問題意識から言い訳したかったのです。長々申し訳ありませんでした。
参照文献
Hm, Das Kapital (Ökonomisches Manuskript 1863--1865) Drittes
Buch, In: MEGA^2 II/4.2
61--63, Zur Kritik der politischen Ökonomie (Manuskript
1861--1863), In: MEGA^2 II/3