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 Y.K.君,ISM研究会の皆さん,今井です。ようやく俺と神山さん以外の方が
投稿してくださったので,ホッとしています。

>自分でも何を言ってるのかよく分かっ
>てないので、意味不明なばあいは無視してください。

 こちらこそ,今一つよくわからんところなので,どんどんご批判ください。

>このばあいの「人格」とはようするに労働能力のことだと考えてよいのでしょ
>うか? よく分かりません。

 厳密に言うと,ちょっと違うと思います。労働(能)力の定義をもう一度確
認してみましょう。──

「われわれが労働力または労働能力と言うのは,一人の人間〔ein Mensch=個
体的人間,人間個体〕の肉体性すなわち生命的な〔=生きている〕人格性の中
に実存しているような,そしてどの種の使用価値を生産する時にもそのつど運
動させるような,肉体的・精神的諸力能の総体のことである〔Unter 
Arbeitskraft oder Arbeitsvermögen verstehn wir den Inbegriff der 
physischen und geistigen Fähigkeiten, die in der Leiblichkeit, 
der lebendigen Persönlichkeit eines Menschen existiren und die er 
in Bewegung setzt, so oft er Gebrauchswerthe irgend einer Art 
producirt〕」(S.183)。

 労働能力は対象的に(Kraftとして)把握された自己としての人間です。こ
れに対して,人格(類的本質)は自己的に把握された自己なのです。と,ま
ぁ,抽象的なことを言っても仕方がありません。具体的に考えてみましょう。
 先ず,個別的な力能について考えてみましょう。コップを持ち上げる際に
は,様々な肉体的・精神的力能が発揮されます。けれども,そのひとつ一つは
単なる物理的・化学的なものではないでしょうか? 筋肉が動く時,また大脳
が動く時,その個々の運動は,物理的・化学的な運動であるという点では,水
が流れる運動,風が吹く運動とどこが違うのでしょうか? そのような対象的
な運動として現れる力能は対象的自然の力能とどこが違うのでしょうか?
 次に,このような力能の総体について考えてみましょう。物理的・化学的な
運動をいくら集めても,それが物理的・化学的な運動であるということに変わ
りはありません。問題はこれらの諸力能を総体として統括している主体は何か
ということになります。それが自己なのです。力(Kraft)として把握される
限りでの人間と,自己(Selbst)として把握される限りでの人間。総体を総体
ならしめている主体が自己なのです。だからこそ,上の定義でマルクスは“労
働能力は人格性のことだ”と言わずに,“労働能力は人格性の中に実存してい
る諸力能の総体だ”と言っているわけです。

>労働者は目的意識的にモノをつくりますが、(われわれの社会においては)目
>的意識的に社会をつくってるわけではないですよね。

 生産関係は何よりもまず意識から独立に形成されてしまっています。しかし
また,生産関係は交換過程として自覚的に形成され直すわけです。社会契約論
流の社会形成はこれを政治的に翻訳したものです。実際にまた,今日でも社会
は政治的な社会としては民主的な選挙によって形成されているわけです。

>広松理論を批判するばあい、ペルソナにたいする「労働する人格」の先行性と
>ともに、ペルソナの世界の非完結性を言うことが必要だとおもいます。

 正におっしゃる通りです。但し,──これが厄介なのですが──,廣松さん
は,一方では,資本主義的生産を捨象して単純な商品流通しか考察しないか
ら,資本主義的生産を完結した世界として把握してしまい,しかしこれとは全
く逆に,他方では,資本主義的生産(階級社会)のイメージでしか単純な商品
流通を考察しないから,単純商品流通の現象を総て仮象として把握してしまう
のです。こうして,廣松さんは,単純な商品流通を資本の生産過程(階級社
会)の仮象として捉えてしまっているのです。廣松さんは,一方では資本主義
的生産を捨象し,しかし今度は単純な商品流通を考察する時には,他方では単
純商品流通を捨象してしまうのです。だから,廣松さんは殆ど専ら商品論・貨
幣論しか論じていないのにも拘わらず,当の商品論・貨幣論を正しく掴まえる
ことができないのです。こうして,廣松さんの脳髄の中では資本主義的生産が
単純商品流通に,そして逆に単純商品流通が資本主義的生産に相互的に転回し
てしまっているのだと思います。

>広松理論
>のばあい、価値実体論で抽象的労働の対象化をマルクスが言っているのはいわば
>前振り(あとで“錯視”であったことが分かるような前振り)であって、商談に
>なると価値が消えてしまい、労働論というハシゴを外してペルソナの世界がひと
>りでにぐるぐる回りしてしまうわけですね。

 そういうことです。解りやすく整理していただき,どうもありがとうござい
ます。俺が“[ism-study.15] Re^2: On the "Person" etc.”(1999/08/02 
11:57)の中で,──

>廣松さんにとっては,単純商品流通はそもそも仮象
>です

>廣松さんは
>単純商品流通の諸表象を単なる仮象として捉える

と述べているのも,この点と関わっています。一言補足しておくと,廣松さん
は「単純流通の諸表象」だけではなく,単純流通の現実的な現象(物象化,商
品価値など)までも仮象にしてしまうわけですね。