日時 | 1999年10月24日 |
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場所 | 立教大学 |
テーマ | 『どこへ行く 社会主義と資本主義』 |
範囲 | 「資本主義と社会主義の現実から学ぶ」(大西担当分) |
報告 | 今井 祐之 |
理論的対象に即しては,本稿の課題は,第一に,崩壊した旧社会主義国を,資本主義以前の社会主義国として,またそれを通じて国家資本主義国として定式化するということである。これによって,スターリン主義に対する理論的批判が初めて可能になり,同時にまたスターリン主義成立の歴史的必然性も初めて明らかになるであろう。それは,第二に,現存する資本主義国を社会主義(国家資本主義)移行の以後の資本主義国として把握し,その内部での社会主義の成熟を考察するということである。これによって,先進国革命の客観的条件の把握が初めて可能になり,同時にまた共産主義への移行の歴史的必然性も初めて明らかになるであろう。
実践的意図に即しては,それは,第一に,反動的左翼の幻想を完膚無きまでに打ち破るということである。これは否定的な意図である。それは,第二に,資本主義的生産の内部で現れている否定的現実に基づいて,左翼を進歩的左翼として再構成するということである。これは肯定的な意図である。
別に構成と言えるほどのものはない。基本的には,大西(1992)のダイジェストである。従って,大きく分けて,先ず資本主義以前の社会主義の部分があり,次に社会主義以後の資本主義の部分がある。
資本主義と社会主義との同一性:自由という点で見ると,旧社会主義国では国家によって自由が疎外されていたのと同様に,現代資本主義国でも企業によって自由が疎外されている。だから,この点では,旧社会主義国も現代資本主義国も同じである。
社会民主主義の反動性:旧体制から脱却するために,旧社会主義国は“社会主義”から社会民主主義に移行しようとしている。だが,これは全く不十分である。何故ならば,他ならない旧体制は自由の疎外という点では社会民主主義と同様だからである。
マルクス理論の中心:マルクスが最も主張したかったのは資本の専制の廃止である。法的幻想は間違っていた。国有化すれば社会主義が到来するなどというのは大嘘である。資本の専制が廃止されない限りでは,国有化しようと集団化しようと,個別的資本に代わって国家が専制を代行するだけの話である。これでは真の小さな政府など望みようがない。
生産力の基本:封建制の生産力の基本は労働する個人のスキルであった。これに対して,資本主義の生産力の基本は機械である。「労働者が力量をもつこと自身はなんら生産力として現れない,単純化すれば,そういう社会が資本主義社会なのです」 (注1) 。しかしながら,消費の態様の変化は生産力の変化を要請している。今では,生産力の基本は労働者の個性に依存するようになりつつある。ところが,このことはもはや労働者個人が資本に対して対抗し得るようになりつつあるということを意味する。
ゆとり社会と左翼運動:真面目な組合員はバカヤローである。ゆとり社会に背を向けて過労死寸前になるまで組合労働を続けている活動家どもからは,いいアイデアなど出てくるはずがない (注2) 。結局のところ,連中は資本の奴隷と五十歩百歩である。
共産主義への移行:共産主義への移行は最も発達した資本主義で行われる (注3) 。
大西の理論の柱は近代主義(進歩主義),生産力主義,客観主義である。この三者は大西理論において統一されている。
資本の文明化作用は敵対的かつ社会的である。この二つの性格は不可分なものでありながら,いや不可分なものであるからこそ,分裂して現れる。分裂の一方の極である敵対性に着目する社会意識が反進歩主義(悲観主義)であり,他方の極である社会性に着目する社会意識が進歩主義(楽観主義)である。もちろん,社会性と敵対性とは分裂してはいてもやはり不可分なものであるから,反進歩主義も歴史の進歩を認めざるを得ないが,敢えて反進歩の道を選んでしまうのであり,同様にまた,進歩主義も進歩の敵対性を認めざるを得ないが,敵対性を進歩に不可避的な運命として受け容れてしまうのである。
大西は忠実に資本の文明化作用の進歩性を確信している。しかしまた,この主観的確信は絶えず客観的基準によって確証されなければならないのであって,資本が提供しているような,進歩の客観的基準は資本の生産力である。こうして,進歩の基準としての生産力に固執する生産力主義が進歩主義のコローラリとして発生する。
単なる客観的基準としては生産力は資本の生産力であり,従って対象的・客体的・客観的な生産力であるから,対象的・客体的・客観的にしか把握されず,それ故にまた生産力の主体的担い手も対象的・客体的・客観的にしか把握されない。こうして,客体と主体とが切断されて,主体の発展も対象的・客体的・客観的にしか位置付けられない。こうして,変革主体の形成は偶然的になる。ここで,客観主義が発生している。
大西は左翼であるから,当然に大西に対する批判も左翼の内部で行われている。そもそも大西の変な──単に独自的であるだけではなく──点は,彼がマルクス主義者であるということだけである。そこで,当然に,左翼内部での内ゲバとして,彼が左翼的であるのかどうかということが問題になる。しかしながら,現代的世界において(一定の地位を占めているとは言っても)全く勢力をもっていない左翼の内部のケチな内ゲバを越えない限りでは,現代的世界における大西の位置付けは不可能になり,それ故にまたケチな左翼内部での彼の位置付けも不可能になる。
大西の独自性は極めて誠実に近代主義・進歩主義の理想を徹底させようという素朴さにある。これが大西の最高の長所であり,だからこそこの点に批判を集中させなければならない。何故ならば,そもそも近代主義・進歩主義はその徹底において限界に突き当たるからである(換言すると,それはその本性上,決して徹底され得ないのである)。それが限界に突き当たらないと信じているバカども理論家たちは,結局のところ,近代主義・進歩主義の徹底を断念して限界の中に安住しているのに過ぎない。
言うまでもなく,われわれにとって必要であるのは,近代主義・進歩主義に(つまり大西広に)背を向けて反動的左翼になるということでは決してなく,近代主義・進歩主義の徹底によってその限界を暴露するということである。未来社会は,大西広が夢想する事実上,言明しているのとは異なって,近代主義・進歩主義の延長線上にあるのでは決してなく,寧ろその限界の突破にあるのである。どれほど有給休暇をとっても,どれほど会社を転々としようとも,どれほど資本の専制を主体的に拒否しようとも,──もちろんそれ自体は社会的進歩ではあるが──,やはり資本の罠が待ちかまえているのである
(注4)
。有給休暇も会社選択の自由も──社畜と同様に──総て資本自身が自己否定的に措定する運動形態なのであり,限界を制限として突破する形態なのである。あれやこれやの偶然的な個別的資本は別にして,システムとしての資本は総てを包摂するということによって,自己を維持していくのである。
例えば,大西は,中国の経済発展(=生産力発展)にとってプラスであるのかマイナスであるのかという基準で天安門での民主化要求に対する弾圧を正当化している(大西(1996),第210〜211頁)。しかし,問題は生産力発展は生産関係の変革を齎し,それによって主体を客体的に鍛え上げ,それを通じて主体の意識の変革をも齎さざるを得ないという点──要するに,客体的発展は主体形成を齎すという点──にある。既に民主化要求が立ち現れざるを得ないほど中国の経済発展が進んでしまったということ,既に開発独裁体制が制限として意識され始めているということを,あの事件は表現しているのである。大西には世界革命の展望などないのだから世界に対して天安門事件が与えた衝撃(従ってまた開発独裁は規制されるべきだという当為)についてはこれを度外視するとしても,もし民主化要求を嘲笑するのであれば,開発独裁の歴史的必然性──既に制限として意識され始めている──にではなく,民主化運動の未成熟さに基づいて,これを嘲笑するべきである。要するに大衆運動ではないという点で,学生の民主化要求は弾圧可能であったのだ。大西は強調していないが,天安門でのバカ学生の民主化運動は,正に北京の特権的エリート学生たちの馬鹿騒ぎであって,労働者のを中心とする大衆運動では決してないという点に,決定的な弱さをもっていた。それにも拘わらず,それは中国の経済発展の敵対性を──開発独裁の敵対性という特殊的な形態でではあっても──暴露しているのである。われわれは寧ろバカ学生たちの与太一揆に対する弾圧を公然と非難し,一国開発独裁に対する国際的・世界的規制を訴え,開発独裁という形態での資本主義の敵対性を訴えるべきなのである。大西には,開発独裁も開発独裁批判もどちらも資本による社会的進歩の帰結であるということの認識が決定的に欠如している。資本による社会的進歩は生産力発展に解消され得ないのである。
ここで,進歩主義の限界が暴露されている。もし進歩が徹底されるならば,進歩に対する批判を措定せざるを得ない。資本はあれやこれやの特殊的要因(例えば,生産力,GNP)に進歩を齎すのではなく,社会全体に進歩を齎すのである。換言すると,資本による社会的進歩は生産力発展の枠内で完結するものではない。だからまた,進歩主義は,もし徹底されるならば,進歩主義に対する批判をも包摂せざるを得なくなり,自己自身の自立性と完結性とを批判せざるを得なくなり,こうして自己自身を否定せざるを得なくなるのである。
よくよく考えてみよう。──客観主義はどこまでいっても萌芽を,可能性を見出すだけなのだから,結局のところ,新社会への移行は説教によって達成されるしかない。可能性を現実性に移行させる契機自体は客体の中にはないのである。ここで,徹底によって,客観主義は主観主義に転回するのである。せいぜい新人類に説教してくれ。ドラッカーのように知識労働者に説教する方が百倍も優れているが。(現実的には,新人類が大西の説教など聞きはしないから,結局のところ大西は既成左翼に説教するしかないのだが)。
大西には,資本主義の発展が資本主義の内部に共産主義の萌芽を生み出すという把握はあるが,資本主義自身が可能性を現実性に移行させる契機そのものを生産せずにはいられないという把握は全くない。だから,大西が左翼として成しうることは要するに新人類に対する説教である。何故ならば,新人類そのものは共産主義への移行を志向しているのではないということは明白だからである。
要するに,大西には,資本主義の枠内での客体的な変革が主体的な変革をもたらさざるを得ないという把握はないのである。客観性の世界では新人類はどこまでいっても新人類のままであるはずだから,彼らの内部には,逃避への欲求はあるが,革命への欲求などはないはずである。だから,大西の理論では,ここに革命家の役割がある。ドラッカーと全く同じだ! 但しドラッカーの方が大西よりも数百倍も優れているが。
もう一度振り返ってみよう。──客観主義は客体と主体の二分法から出発する。明らかに,客体の方は発展する(つまり完結しない)。この発展に応じて,主体もまた客体的には発展する。しかし,正に客観主義は客観主義であるからこそ,客体と主体との客体的発展によって主体が主体的に形成されるという点を無視するのである。彼らにとっては,発展は,客体の発展であろうと主体の発展であろうとも,いずれにせよ客体的な発展だけである。だからこそ,客観主義にとっては主体形成──主体が客体的にだけではなく主体的にも達成する発展──は萌芽,可能性でしかないのである。しかし,社会変革は,この萌芽が開花に移行するということ,この可能性が現実性に移行するということを条件にする。しかしまた,客観主義にとっては,この移行は客観的・客体的な過程から排除されている。と言うのも,客観主義は,客観主義であり続けるためには,客体と主体との二分法を維持し続けなければならないからである。それ故に,やはり客体の発展から切り離された学知的主観の説教がこの移行を齎さなければならないのである。
このように,客観主義は自己の徹底によって主観主義に転回した。しかしまた,この徹底は客観主義の限界自体をも明示している。すなわち,徹底によって主観主義に転回するのではなく,徹底によって客観主義を止揚する道もまた明示されている。何故ならば,正に客観主義が主観主義に転回しているからである。そもそも客観主義は主観主義であってはならないものであった。そこで,客観主義が主観主義に転回するということは,客観主義が自己維持可能な思想ではないということ,客観主義と主観主義とが表裏一体のものであるということを意味しているのである。だから,客観主義はその徹底において主観主義への転落を通じて自己の限界を表示しており,そしてまた自己の限界の表示を通じて新たな地平を表示してもいるのである。
結局のところ,大西の議論は日本特殊性論である。もし労働力移動がそれ自体として共産主義に直結するのであれば,そろそろアメリカでは共産主義が実現していてもいい頃である。大西とは異なって,ドラッカーはきちんとこの点を徹底させようとしている。アメリカでは既に資本主義は止揚されたのだ。──もし大西が自己の理論を徹底させようとするのであれば,ドラッカーから多くを学ぶべきであった。
自由の問題で社会主義を考えるのが大西のいいところ優れた点である。自由がないところには平等もないのである。自由と平等とを二分させ,前者を資本主義に,後者を社会主義に結び付けるのは全くくだらないブルジョアイデオロギーただの日常観念である。ただの日常観念実際には,単純商品流通において自由と平等とが不可分の項ものであり,資本主義的生産において自由も平等も否定される。自由がないところに平等もないし,平等がないところに自由もない。
会社離れ──会社からの自由──を資本の止揚の契機として重要視するのはドラッカー知識労働論と全く同様である。但し,ドラッカーの方が大西よりも数百倍も優れているが。
客観主義的マルクス主義の連中理論家たちに共通しているのはいわゆるプロレタリア独裁の位置付けの欠如である。彼らも過渡期国家について語る。しかし,彼らは過渡期国家をプロレタリア独裁として把握しようとは決してしない
(注5)
。自覚的に結集した勢力が権力を握れと言うだけでは,どうしてソ連と同じ結果に陥らないと言えるのであろうか? 生産力基盤からソ連では移行が不可能であったとしても,どうして現代の生産力基盤では移行が可能になるのだろうか?
大西の労働論は,ドラッカーの知識労働論を俗流化したものである。マルクス主義などというケチな世界の内側でケチな人生を送ってきた素朴な大西は,マルクス主義の外部でこそ,資本主義批判と共産主義論とが論じられてきた──逆に言うと,マルクス主義の内部では資本主義批判も共産主義論も論じられてこなかった──という20世紀の精神史を知らなかったのである。だから,ロストーを見て,それがマルクス的だなどと妄想して言って喜ぶのである。それだけである。
ロストーについては話は単純である。現代ブルジョアイデオローグの中で唯物史観の立場に立っていない者など果たしてどのくらいいるのか? そもそもそれはマルクスの時代から社会的常識(少なくともインテリの間では)であったのではないか? 現在でも例えばサミュエルソンのごときは,手放しでそれを賞賛している。
機械制大工業論では,大西は中村静治の忠実な部下である。一言で言うと,中村静治の欠陥は労働過程論を労働論として把握していないということにある。結局のところこれはドラッカーの欠陥である(ドラッカーの方が中村静治・大西広よりも数百倍は優れいてるが)。だからこそ,中村静治にとっては技術は労働手段体系としてしか現れないのである。
旧唯研論争の出発点は,技術は労働から区別されなければならないということであった。この問題意識のもとに技術と労働との同一性は無視されてしまった。当然に,技術は労働とは異なる。だからまた,技術を規定する際には,労働からの区別を問題にしないわけにはいかない。しかし,それは労働が正しく把握されて初めて可能になるのである。およそ区別性というものは同一性を前提しているのである。
大西の長所の一つは労働過程論によって現代資本主義を分析するということにあった。大西の短所もまた,労働過程論に端的に現れる。
マルクスの労働過程論は実は労働過程から始まっているのでは決してない。そうではなく,それは労働過程を措定する労働から始まっているのである。労働こそは労働・労働手段・労働対象という過程の三契機を措定し,そしてこの過程の三契機を契機的に統一するということによって過程そのものを措定する。
生産力については,大西は次のように述べている。──「この問題を生産力的基礎から論じれば次のようになる。すなわち,「機械」が主要な生産力であった時代が終わり,「人間の生産力」が見直される時代が到来しつつある。強いとか,軽いとか,堅いとか,精巧だとか,速いとか,要するに「重厚長大」や「軽薄短小」などという量的性質は「機械」が最も得意とするものであるが,さわやかとか,美しいとか,かっこいいとか,おもしろいとか,センスがいいとかいった性質は人間の豊かなセンスによってのみ「生産」可能なものである。そして,今や,この後者こそが商品により不可欠な「質」となってきており,ここでの人間の付加価値,「ソフト」の役割は決定的となってきている」(大西(1992),第99頁)。
バブル破綻以前の能天気な把握だ! 大西バブルも弾けたのだ! しかし,「さわやか」なもの,「美しい」ものとか,「かっこいい」ものとか,「おもしろい」もの,「センスがいい」ものは何によって生産されるのか? そもそも,現在では人間の発想はテクノロジー抜きにあり得るのか? 逆に,機械の生産力は「人間の生産力」以外のなにものであったのか? 「人間の生産力」は“機械の生産力”と同様に労働の社会的生産力であって,それ自体としては資本の生産力として現れざるを得ないのだ。
(注1) 明らかに,大西は生産力がどのように「現れる」のかという問題と,生産力の規定的要因は何であるのかという問題とを混同している。生産力がどのように「現れる」のかという問題は機械設備からは独立的に考察されなければならない。直接的には,この混同は機械設備とその資本主義的充用との区別が不明確であるという点から生じている。しかし,結局のところ,それは労働把握の不明確さに帰着する。
(注2)
何故に,大西はここで生協の敵対性,生協の階級性,生協の物象性に言及しないのか。ここで,基礎研の連中がいかに生協に買収されているのかということが明らかになる。ゆとり社会から疎外されているのは大西も同様であった。
もし営利企業の中でと同様に同様に生協の中でも,余暇を求めるということが個人の自由な発展を保証するのであれば,それは単に生協が資本の自己形態であるということを意味するのに過ぎない。よほど幸福な生協労働者でなければ,どの生協労働者も自分が搾取されていると感じているであろう。よほど幸福な生協出資者でなければ,どの生協出資者も取得法則が転回している(自分が出資したカネが他人のカネ,生協のカネになっている)と感じているであろう。そして,これだけをとってみると,生協もスーパーマーケットもさして変わりない。最も成功した生協はスーパーマーケットである。そしてこれは疑いなく正しい。それだけである。ここで議論は終わりだ。
(注3) 結局のところ,大西には世界革命の展望はない。大西にとっては日本的経営に──日本資本主義に──対抗し得るような近代化された個人の育成が肝心なのであるから,このことは当然である。大西の近代化論は反動的左翼と全く同様にナショナリズムである。
(注4) 「われわれが変革をする資本主義の根本は「資本・賃労働関係」にあったが,その「根本」に大きな変化の兆しが見え隠れしてきている。というのは,最近,われわれの住む日本の「資本の専制」の最も重要なテコであった「会社主義」と会社共同体意識が,ここにきてきわめてきびしい批判にさらされ,現実の「会社離れ」も着実に進行してきているからである」(大西(1992),第87頁)。この命題そのものは疑いなく正しい。問題は「根本」の「変化」がどのようにして移行の契機になるのかということである。どれほど会社離れ──個別的資本からの自由──が進行しても,個人は社会的総資本からは──ヨリ正確には社会的生産関係からは──決して自由にはならない。それどころか,個別的資本からの自由は,労働者間での競争の激化を齎すのだから,それ自体としては総資本への隷従の深化を意味する。資本こそが会社離れを要請しているのである。大西に対する批判はこれだけでもう十分である。実際にまた,大西が批判している反動的マルクス主義の理論家たちはこのように大西を批判するであろう。
(注5) 「われわれは今まで,どうしても「体制転換」をたんに「権力奪取」や「企業の国有化」などといったものとしてしかイメージできなかった。しかし,個々の労働者にとってより重要なのはその「体制転換」によって自分の労働がどう変わるのか,ということである。「権力」が誰かの手から誰かの手に変わっても,それ自体はいわば労働者にとってどうでもよいことである。問題は,自らの「労働」が「他人の労働」ではなく真に「自分の労働」といえるものになるかどうかであって,実はそのために「権力」の性格が変えられたり,時には「企業の国有化」が一時的有効性をもったりする,ということにすぎない」(大西(1992),第95〜96頁)。強調しておくが,このような把握自体は実に正当である。但し,ただ「権力奪取」論者や「企業の国有化」論者やに対してのみ,正当なのである。プロレタリア独裁論は権力奪取論でも企業国有化論でもなく,優れて過渡期論である。他人労働の止揚,労働疎外の止揚の強調は──権力奪取の強調,企業国有化の強調に較べると遥かに優れているとは言っても──それだけでは単なるお説教である。実際にまた,ユートピア社会主義者もヒューマニスト社会主義者も他人労働の止揚,労働疎外の止揚を強調するであろう。